Bliss Divine
16.死
偉大な科学者たち、沢山の驚くべき物を作り出した発明家たち、並外れた仕事を成し遂げた偉大な皇帝たち、直観に満ちた詩人たち、素晴らしい芸術家たち、大勢のブラーミン、賢者、ヨーギが来ては去って行った。あなたたちは皆、彼らが一体どうなったのか、是非とも知りたいと思っているだろう。彼らはまだ存在しているのか?死の向こう岸には何があるのか?彼らの存在は消滅してしまったか、または、空気のように実体の無いものになったのか?このような疑問が、ふと心の中に浮かび上がるのは、誰しも同じである。数千年前にも、今日と同じ疑問が存在していた。それを止めることは誰にもできない。なぜなら、それは私たちの本来の性質と繋がっており、切り離すことができないからである。
死の概念は、宗教と宗教的な人生への、最も強い動機であり続けている。死は、人間を不死の探求へと駆り立てるのである。
人は死を恐れる。人は死にたくない。永遠に生きたいと思う。これが、哲学の出発点である。哲学は問いかけ、研究する。哲学は大胆に宣言する。「人間よ、死を恐れるな。永遠不滅の棲み家はある。それがブラ―フマンだ。それが、あなたの心の小部屋に住む、あなた自身のアートマンなのだ。あなたの心を浄化し、この純粋、不滅、不変の真我を瞑想なさい。あなたは不死を得るだろう。」
あなたは死ぬことができない。何故なら、生まれたことがないからである。あなたは、不死のアートマンなのだ。誕生と死は、マーヤーによる虚構のドラマの中の偽物の場面にすぎない。それは、肉体の鞘だけに関係している。肉体とは、5つの要素を組み合わせて作られた、虚偽の物体である。
全ての魂は円である。この円の円周は、どこにも無い。しかし、その中心点は肉体にある。死とは、この中心点が身体から身体へと移動することを意味する。だとしたら、なぜ死を怖がる必要があるだろうか?
死とは何か?
死とは、魂が物理的な身体から離れることである。魂が身体に入ることは誕生と呼ばれる。魂が身体から離れることは死と呼ばれる。そこに魂が存在しないなら、身体は死んでいる。
死とは、人生の一つの様相から他の様相へと通じている扉である。死とは身体的、もしくは物質的な活動の停止である。また、物質的かつ有機体的な機能の停止であり、身体的な意識の停止である。死とは、存在が一つの段階から他の段階へと移行すること、意識の形が他の段階、すなわち、アストラル的な、または精神的な段階へと変化することである。波動の度合いによって、氷は水になり、水は蒸気になり、蒸発して目に見えないガスになる。同様に、生命にも身体的、アストラル的、精神的な段階がある。
あなたの人格と自意識は死によって終わるわけではない。それは単に、より高い生命の形への扉を開くだけである。死は、より充実した人生への入り口にすぎない。
死は人格の消滅ではない。死は、重要な個性を中断するにすぎない。それは単に形を変えるだけである。普遍性を獲得するために、人生は続く。永遠の中に溶け込むまで、人生は続く。
死は人生の終わりではない。それは人生における一つの側面である。死は人生というコースの中の自然な出来事であり、あなたの進化のためには不可欠なものである。
死は生の反対語ではない。それは人生の一段階にすぎない。人生は止むことなく続いて行く。果物は腐敗するが、その種は生命に満ち溢れている。種は消滅するが、その種から巨大な樹が育つ。樹は死んで、豊かな命を持った石炭となる。水は消滅し、目に見えない水蒸気となる。しかし、その中には新しい命の種が内包されているのだ。石は消滅するが、新しい命に溢れた石灰になる。物質的な鞘だけは投げ捨てられるが、人生は持続する。
身体の消滅は眠りと何ら変わりはない。人は眠り、目を覚ます。同様に、死んで、誕生するのである。死は眠りと似ている。誕生は目覚めと似ている。死は、新しく、より良い人生への昇格をもたらす。識別と知性の持ち主は、死を怖がることがない。死が人生への門だと知っているからである。彼にとって、死とは生命を断ち切る刀を手にした骸骨ではなく、むしろ、より開放され、満ち足りた、幸福な存在への扉を開く、黄金の鍵を持つ天使である。
目覚めの後には眠りがやって来るように、誕生の後には死がやってくる。あなたは、前世でやり残した仕事の続きを再開するだろう。それゆえ、死を恐れないようにしなさい。
誕生と死は、マーヤーが行うジャグリング(お手玉のような曲芸)である。誕生した者は死に始める。死んだ者は生き始める。生は死で、死は生である。誕生と死は、この世という舞台に登場し、退場するための扉にすぎない。
一軒の家から、もう一軒の家に移るように、魂は一つの身体から別の身体に移り、経験を積む。人が、古くなった衣服を脱ぎ棄てて新しい衣服をまとうように、この身体を棲み家とする者も、使い古された身体を棄てて、新しい身体に宿るのである。
人よ、決して死を恐れてはならない。死とは、マーヤーが作り出す幻の現象にすぎない。死とは要素の分解である。汝は不死、すなわちAmaraである。
死の兆候
死の確実な兆候を見つけるのは非常に難しい。心拍の停止、脈拍や呼吸の停止は、実際には死の兆候ではない。心拍の停止、脈拍と呼吸の停止、手足の死後硬直、じっとりした汗、温かさが失われた身体などが、死の一般的な兆候である。医師は、目の角膜反射があるかどうか確かめるだろう。彼は、脚を曲げてみるだろう。このような兆候は、死の本当の兆候ではない。なぜなら、呼吸が止み、心拍が停止したにも関わらず、しばらくして生き返った事例がいくつかあるからである。
ハタヨーガの修行者が箱に入れられ、40日間、地中に埋められる。その後掘り出されて、生き返る。長時間にわたり呼吸が止まることもある。生命活動を停止した場合には、2日間呼吸を止めることもある。数多くの事例が報告されている。心拍が数時間、さらには数日間にわたって止まり、その後、回復する。そのため、何が事実上の、もしくは最終的な死の兆候であるかを断定するのは非常に難しい。肉体の分解と腐敗が、唯一の最終的な死の兆候かもしれない。
死の直後、肉体の分解が始まる前に埋葬してはならない。その人は死んだと思われているかもしれないが、もしかしたら、トランス(恍惚状態、昏睡状態)、カタレプシー(強硬症)、エクスタシー(忘我の境地)、サマーディ(三昧)ということも有り得る。トランス、サマーディ、カタレプシー、エクスタシーは死と良く似た状態である。外面的な兆候は同じに見える。
心不全の患者は、すぐに埋葬してはならない。時間を置いてから息を吹き返すことがあるからである。埋葬は、肉体の腐敗が始まってからのみ行われるべきである。
死後の魂の旅
人は死に際して、永遠不変のリンガ・シャーリーラを一緒に持っていく。リンガ・シャーリーラは、5つのニャーナ・インドリヤ(知性器官)、5つのカルマ・インドリヤ(行動器官)、5つのプラーナ、マインド、ブッディ(知性)、チッタ(潜在意識)、アハンカーラ(エゴ)、そして、変化しながら次の人生の形成を決定するカルマシャヤ(原因体、カルマ・シャーリーラ)から成り立っている。
魂は収縮し、すべての感覚を撤退させる。空になったオイルランプの炎が徐々に消えていくように、肉体の感覚は徐々に薄くなる。精妙な身体、すなわちスクシュマ・シャーリーラは、霧のように肉体から抜け出る。
魂は、主な生気であるムキャ・プラーナ、感覚器官、およびマインドを伴っており、無知や、善行と悪行、そして過去生からの印象を持ったまま、以前の肉体を去り新しい肉体を得る。魂が一つの肉体から別の肉体へと移行するときには、これらの構成要素の精妙な部分によって包まれている。それが新しい肉体の種となるのである。という
魂は新しい身体の未来像を描いている。ヒルや芋虫は、掴んでいる支えを手放して移動する前に、別の支えを掴む。魂も、現在の身体から去る前に、次に纏う身体を視覚化するのである。
死に際しての要素の分解
この肉体はマハーブータと呼ばれる5大要素から作られている。すなわち、地、水、火、空気、エーテルである。デーヴァたち、つまり神々は、神聖な、または輝く身体を持つ。彼らの中で優勢なのは、火のタットヴァである。人間では、土の要素が多くの重量を占める。水生生物では、水の要素が優勢で、鳥では空気の要素が優勢である。
身体の硬さは土の要素が原因である。流動性は水の要素から来る。身体に感じる熱は火によるものである。あちこちと動き回るような活動は空気から、また、空間はアーカーシャ、またはエーテルが原因である。
これらの要素は、死後に分解する。そして、自然という、尽きることのない貯蔵庫にある、原初の源に到達する。土の要素は、プリティビ・タットワの貯蔵庫に取り込まれる。他の要素も、それぞれの源泉に戻って行く。
それぞれの臓器の機能は、それを司る神に溶け込む。視覚は、視力をもたらしている太陽に戻る。話し言語は火に、呼吸は空気に、耳は四つ足の動物に、肉体は土に、体毛は一年草に、頭髪は木に、血と精液は水に溶け込む。
死の痛み
死ぬときに痛みはない。死に関しての嫌悪と恐怖は、無知な人々が作り出したものである。ガルーダ・プラーナとアートマ・プラーナは、死の痛みを72,000匹の蠍に刺されたときの痛みと同等であると説明している。これは単に、聴衆や読者の恐怖を煽ることで、彼らをモクシャ(解放・悟り)の獲得へと向かわせようとしているに過ぎない。スピリチュアリズムにおいては、悟りを開いた魂たちが、死ぬときに痛みは全くないと口を揃えて報告している。彼らは死の経験を明確に描写し、肉体を手放すことで大きな重圧から解放され、肉体から離れている間も完全な冷静さを楽しんだと証言している。マーヤーは肉体に痙攣性の収縮を引き起こし、見ている者たちの心に無益な恐怖を作り出す。それが、マーヤーの性質であり、習慣である。死の痛みを恐れてはならない。あなたは不死、すなわちAmaraなのだ。
死者のための祈り
死の直後、旅立った魂は意識を失った状態になる。彼らは生前に持っていた粗大な物質的身体から離れたと感じることができない。祈り、キールタン、そして、親類や友人たちからの善意に満ちた思いは、旅立つ魂に真の慰めをもたらすことができる。そして、無感覚だった死者のマインドに強い振動と覚醒を生み出し、覆われていた意識を呼び覚ます。自分が、粗大な物質的身体の中に居るわけではないということを、魂が理解し始めるのである。
それから、彼らは境界を成すエーテルの細い川を渡ろうと努力する。その境界は、ヒンドゥ教の信者にはヴァイタラニと呼ばれ、パルシー教徒にはチンナット橋、イスラム教徒にはシラートと呼ばれる。
旅立った魂が安らかに沈み込んで行くときに、天国で栄光に満ちた覚醒を体験する準備ができたそのときに、友人たちや親類のすすり泣きや嘆き悲しみによって、世俗の人生の記憶が鮮明に呼び覚まされる。死を悼む人々の思いが、死者のマインドの中に同じような波動を作り出し、激しい痛みと不安をもたらす。親類たちが取り乱して嘆き悲しむ様は、死者の魂をアストラル界から引き降ろす。これは、天界への旅を著しく妨害する。それは、死者の魂に深い傷を与える。
死の直前の思考形態
死の直前に考えたことが、その人の未来の運命を左右する。それが、未来の誕生を決定づける。
みだらな男は、最期に彼の情婦について考える。常習の大酒飲は、最期に酒樽の栓について考える。強欲な金貸しは、最期にお金のことを考える。戦さの最中にある兵士は、敵を銃撃することが最期の考えになるだろう。一人息子に激しく執着している母親が最期に考えるのは、息子のことだけである。
バラタ王は慈悲心から鹿を育て、その鹿に執着を持つようになった。彼の最期の考えは、その鹿についてであった。そのため、彼は鹿として転生しなければならなかった。
人は、マインドを神に定めて安らかな死を迎えることを常に望んでいる。死の床にある病人に、ギータ、バガヴァータ、ヴィシュヌ・サハスラナーマ、その他の聖典を読み聞かせるのは、そのためである。話すことはできないとしても、彼に向けて朗読されている言葉を聞くことはできるかもしれない。それは、身体について、もしくは自身の病気について忘れ、神のことを考えるための助けとなる。記憶が失われるとき、聖典の神聖な言葉が、彼自身の真の性質を思い出させるだろう。
臨終のときに、病気によって身体が苛まれ、意識が遠のく中で、神意識を持ち続けることは非常に困難である。しかし、生涯にわたってマインドを訓練し、絶え間ない実践を通してマインドを神に定めようとしてきた人にとっては、神だけが最期の考えとなるだろう。そのような境地は、気まぐれな練習を一日や二日、あるいは一週間、一か月間したからと言って得られるものではない。それは、一生を通じての努力と苦闘である。
死と転生との間の期間
人々は、肉体を離れてから再び誕生するまでの正確な期間を知りたがるものである。魂は、1年後に新しい肉体を纏うのだろうか?それとも、10年後なのだろうか?再び地上の世界に姿を現すまでに、どのくらいの期間、精妙な世界に住むのだろうか?疑問のうちのいくつかは、このようなものである。
この疑問の答えは、主に2つの要因によって決まる。すなわち、個人の持つカルマと、死の直前の印象である。その期間は、数百年から数か月まで、様々である。より精妙な場所にある別の世界で、いくつかのカルマを解消する魂たちは、新しい肉体に入るまでに相当な時間がかかる。地上の1年は、天界ではたった1日で過ぎ去るため、次の転生までの期間は非常に長くなる。実例を一つ挙げよう。古代遺跡の壮大な廃墟に驚きと尊敬の眼差しを向けている外国人観光客を見て、近隣に住む聖者が次のように言った。「彼らのうちの何人かは、数百年前にその遺跡を作った当人である」と。
時には、性欲が非常に強い人や、執着の強い人が、即座に転生してくることがある。また、暴力的な死や、突然の予期せぬ事故によって生命が中断させられた場合には、ジーヴァが非常に早く人生を再開させることがある。このように即座に転生するケースでは、前世で起きた様々なことをジーヴァが覚えていることが、しばしばある。その人は、前世での親類や友人を覚えていたり、昔の家や馴染みのある物を言い当てることができる。
また、それが非常に奇妙な事態を引き起こすこともある。例えば、殺された人が転生し、どのようにして殺されたかについて言明し、殺人者を特定したという事例があった。時には、転生した人が、迷わずその場所に行って、自分が前世で隠した財宝を探し当てたという事例もある。
大多数の人たちは、前世の記憶を持たない。これはまさに、全知の存在から贈られた恩寵である。そのような記憶は、私たちの現在の人生を非常に複雑なものにするだろう。あなたにとって、過去を思い出すことが望ましく、役に立つときが来るまで、過去は隠される。あなたが完全さを達成し、一つの循環を終えるとき、すべての事が明らかにされ、一人の人間の性格に織り込まれた過去生の全体を、一連のロザリオ(数珠)として見るだろう。
しかし、このような、即座に転生するケースは一般的ではない。普通、平均的な人にとって、死と転生との間の期間は、地上の時間で計測した場合、相当長い期間となる。沢山の良いカルマを積んだ人は、再び生まれ変わるまでに、非常に長い時間を天界で過ごす。偉大な魂や、霊的に進歩した人々は、転生するまで長い期間待つのである。
旅立った魂、特に、肉体的にも霊的にも発達を遂げた人の魂は、死と新しい誕生との間の期間に何らかの必要性が生じた場合、しばしば肉体を伴って地上に現れる。それは人間の形をしており、会話し、実際に触れて感じることさえ可能である。こういった幻影は、写真に撮ることもできる。
アストラル体は通常の視覚では見ることができないため、このような物質化した姿は、アストラル体とは異なったものだと言える。アストラル体は物理的な身体の正確な複製、精妙な「生き写し」で、肉体を離れた魂が死後の旅に使うための乗り物となるのである。
しかし、アストラル体としての意識は、あなたが生と死から解放されることを保証するものではない。神秘主義とスピリチュアリズムが、あなたに究極の解放をもたらすことはあり得ないし、その先にある秘密を完全に解き明かすこともない。スピリチュアルな覚醒と真我の知識のみが、生と死の、そして死後の生についてのミステリーを明かしてくれるのである
死を恐れてはならない
世俗的な人にとって、死は苦痛である。ヨーギや聖者は死を恐れないし、真の探求者でさえも同様である。欲望を持たない者は、死に際して決して泣くことがない。真我の知識に確立したニャーニは死ぬことがない。彼のプラーナは決して肉体を離れない。あなたにとって最も高尚な義務は、あの世での平安な生活の準備をすることである。死の恐怖を克服することと、死を克服することは、すべてのスピリチュアルな訓練の中で最も有益なことである。ヨーガの訓練が目指す唯一の目標は、恐れることなく喜びに満ちて死を迎えることである。
人は死を恐れる。年老いてから、神のことを考えようと試みる。彼がもし、少年のときから神を覚えているとしたら、年老いたときにスピリチュアルな実りを豊かに刈り取るだろう。
ビーシュマは自らの死を意のままにできた。サーヴィトリーは、禁欲の力によって彼女の夫であるサチャヴァーンを生き返らせた。マールカンデーヤはシヴァ神への礼拝を通して死を克服した。帰依心、知識、そしてブラフマチャーリヤ(禁欲)の力によって、あなたも死を克服することができるのだ。