Bliss Divine
43.愛
愛は生命の原理である。愛することはその原理を全うすることである。そして、原理を全うすることは永遠の平安と尽きることのない幸福を意味する。
この世界は愛から生まれ、愛の中に存在する。最終的には愛の中に溶け込む。愛は、宇宙の原動力である。
愛は生命である。愛は喜びである。愛は暖かさである。愛は心と心、魂と魂を繋ぐ金色のリボンである。
愛は建設的で創造的である。愛は束ね、積み上げる。愛は子孫を残すための原則である。愛は、自信を持って使うことができる実質である。
愛は肯定的で堅固なものである。愛の原理を科学的な正確さで当てはめることのできる人は、素晴らしい働きができる。愛の原理は、近代的な科学よりもはるかに偉大な科学である。愛の原理は、聖者や善人の中に現れる。
生きることは愛することである。愛することは生きることである。愛することを学ぶために、あなたは生きる。永遠の中に生きることを学ぶために、あなたは愛する。信仰、愛、帰依心のない人生は退屈で無駄である。それは、本当の死である。
愛よりも高い徳はない。愛よりも価値のある宝はない。愛よりも高い知識はない。愛よりも高いダルマ(正義)はない。愛よりも高い宗教はない。なぜなら愛は真実であり、神だからである。神は愛の顕れである。彼の創造の細部を通して彼の愛を理解することができる。
愛は真実、または神の王国への最短の道である。それは、創造における生命の原理である。それは、魂の力の最高の表現である。それは、あらゆる宗教における義務を総計したものである。それは、帰依者が手にした魔法の杖、全世界を征服する杖である。それは、ミーラ(ミーラバイ、16世紀の詩人でクリシュナの帰依者)、ラダ(クリシュナの恋人・帰依者)、トゥカラム(17世紀の詩人・聖者でヴィシュヌ神の帰依者)、トゥラシダス(16–17世紀の詩人・聖者)、ゴーランガ(15–16世紀の聖者、クリシュナの帰依者)、イエスキリスト、そして神に酔いしれたスーフィー、マンスール(イスラム教の賢者たちの名称)、シャムス・タブリエス(13世紀のイスラム教の詩人)の背後にあって彼らを動かした力である。
情熱と純粋な愛
身体や肌に対する愛は情熱である。神への愛はプレムまたは帰依心である。それは純粋な愛、愛のための愛である。
自分の利益になるような何かを求めて愛することは自己中心的な愛である。それはあなたを、この地上に縛り付ける。全ての生き物を神の顕現として愛するナラヤナ・バーヴァは、純粋な愛である。それは神聖な愛であり、あなたを解放へと導く。
夫は、妻のためではなく自分自身のために妻を愛する。それは自己中心的である。彼は感覚的な喜びを妻から得ようと期待しているのだ。ハンセン病や天然痘が彼女の美しさを破壊したとしたら、彼の愛は終わることだろう。
そのような愛には肉体に対する情熱がある。根深い自己中心性がある。それは代償を期待する愛である。
代償を期待する愛では、愛する者と愛される者の両者の間に本当の幸せは無い。夫が死にかけているとしたら、妻は預金通帳を持って静かに実家に戻るだろう。夫が失業したときには苦い顔をして罵り、愛を込めて夫に奉仕することもなくなるだろう。それが自己中心的な愛である。心の底からの本当の愛ではない。そこには自己犠牲の要素は全くない。そのため、家の中には常に言い争い、戦い、アシャンティ(平和でないこと)が満ちている。そのような夫婦は本当の繋がりを持たない。そこには常に争いがある。彼らは、陰気で精気の無い存在をどうにか持ちこたえている。
悪名高い私たちの姉妹(売春婦のこと)でさえ、時として溢れるほどの愛、甘い微笑み、蜜のような言葉を客に投げかける。彼らから金銭を引き出せる限りは・・・。これを愛や本当の幸福と呼べるだろうか?率直に答えてほしい。そこには、ずるさ、駆け引き、不正直、偽善がある。
世俗的な愛には、空虚さ、不協和音、隠された疑い、欠点などがある。しかし、真実で純粋な愛は、豊かで、深遠で、満ち足りており、完璧である。それは永遠、不変、無限である。
自己中心的な情熱は他人から喜びを得ようとする。しかし、純粋で神聖な愛は、愛する者を幸福にしようとする。そして、愛する者の幸福から自分の幸福を引き出す。愛は自己犠牲である。愛することは分かち合いと奉仕である。
奉仕は愛の表現である
愛は奉仕、慈善、寛容さ、慈悲深さという形で振動する。
ダヤ(慈悲心)は活動的な慈悲深さである。それは愛の積極的な表現である。アヒムサ(非暴力)は愛の消極的な表現である。
受動的な善だけでは充分ではない。スピリチュアルな成長のためには、能動的な善、または積極的な善が必須となる。霊性の探究者は常に行動しているべきである。
あなたの中に奉仕の精神が根付いている必要がある。生まれつき奉仕の精神を持っていることが必要である。単なる見せびらかしのための奉仕であってはならない。愛、思いやり、誠実さ、神への想いがなければ、どんな奉仕も空虚なものでしかない。神への想いと愛を込めて奉仕をするとき、神はあなたの味方となる。
シャンカラ、イエスキリスト、ブッダ、モハメドたちは奉仕をした。ジャナカとサマルタ・ラムダスも奉仕をした。奉仕せよ・愛せよ・与えよ。この教えを実習する者たちは、天の光から教えを得て、困難な時代や苦難の日々も生き残ることができるのだ。
自分自身を幸福にするために努力するのと同じように、他人を幸福にするために努力しなさい。彼らの助けになるような言葉をかけなさい。元気づけるような微笑みを与えなさい。親切な行いをしなさい。少しだけ奉仕しなさい。苦悩している人の涙を拭いてあげなさい。他の人のために、荒れ地をならして通りやすくしなさい。あなたは大きな喜びを得るだろう。
宇宙的な愛 ヴィシュヴァ・プレム
貧しい人々、恵まれない人々、抑圧された人々を敬いなさい。あなたにとっての神は、そのような人たちである。彼らが、あなたにとって初めての神になるだろう。
全ての人を愛しなさい。供犠や苦行やヴラタ(断食や巡礼による祈願)を百万回行う以上の見返りを得るだろう。隣人の幸福を自分自身の幸福と見なし、隣人の痛みを自分自身の痛みと見なしなさい。
人は一つである。神は一つである。法は一つである。悟りは一つである。私たちは、一本の木に実る多数の果実のうちの一つであり、一本の枝に付く多数の葉のうちの一枚なのだ。この世界には、見知らぬ人も居法人も存在しない。全ての人が、進化の途上にある神である。
生きているものすべてを自分だと見なしなさい。友達であっても敵であっても、共に平和に暮らしなさい。
全ての人は、一つの体の一部である。全ての創造物は神の家族である。神が造られたものを愛しなさい。たった一枚の葉ですらも、愛しなさい。動物、鳥、植物を愛しなさい。全てのものを愛しなさい。それが、全てのものの背後にある神秘的な知識への道である。
私は愛の宗教に従う。私は真のキリスト教徒、真のイスラム教徒、真のヒンドゥー教徒、真の仏教徒、真のシーク教徒、真のパルシー教徒(ゾロアスター教の分派)である。
真の宗教とは、儀式や沐浴や巡礼のことなどではなく、全てを愛することである。宇宙的な愛は全ての者を抱きしめ、誰も除外しない。純粋な愛においては、誰一人として、その暖かい抱擁から締め出されることはない。小さな蟻か強大な象まで、囚人から帝王まで、極悪人から聖者まで、宇宙的な愛は、この地球上に生きるどんなに卑しい存在をも含めるだけの広がりを持っている。人と人、国民と国民、国家と国家を分離しているのは憎しみである。人を人から隔てるのは、プライドとエゴイズムである。憎悪、プライド、エゴイズムは心が作り出したものである。それは無知の産物に過ぎない。それらは、純粋な愛の前に立ちはだかることはできない。
この時代に必要なこと
嫌悪は嫌悪をあおる。愛は愛を生む。恐れは恐れを強める。これは心理学的な法則で、不変である。嫌悪と悪に打ち勝ち、この地球上に神の力である愛が広がるのは、自然の摂理である。
愛の中に全ての存在に対する救済がある。暗く、孤独なこの世界で、愛は希望である。世界は、同情、協力、愛、自己犠牲、慈悲心、忍耐力に満ちた指導者を必要としている。この宇宙的な愛を育むことが、個人のスピリチュアルな進歩、地域の福祉、そして世界全体の平和につながる。この宇宙的な愛のゴスペルを全世界に広めるために、今すぐ行動しなさい。
愛――人生のゴール
世界の聖者や預言者は、人生の最終目標、目的、ゴールは愛だと言う。クリシュナのラーサ・リーラーは愛(プレム)と神聖な神秘に満ちている。ゴピたちが衣服を脱ぐのはエゴの破壊を意味する。クリシュナ神はフルートを通じて愛を説いた。仏陀は愛の海であった。彼は虎の子供の飢えを静めるために自分の体を捨てたのである。シビ王は鷹の食欲を満たすために、鳩と同じ重さの肉を自分の胸から与えた。何と高貴な魂だろう!ラーマ王は愛の人生を生き、どんなに些細な行為にも愛を込めた。私の大切な愛の子供達よ、彼らの教えから啓示を得なさい。愛の道を歩み、神と交流し、永遠の愛の住処に到達しなさい。これがあなたの最も高次の義務である。あなたは、愛という人生で唯一のゴールを達成するために、その身体を得たのだ。
愛に生きなさい。愛の中で呼吸しなさい。愛の中で歌いなさい。愛の中で食べなさい。愛の中で飲みなさい。愛の中で話しなさい。愛の中で祈りなさい。愛の中で瞑想しなさい。愛の中で考えなさい。愛の中で動きなさい。愛の中で死になさい。あなたの思考、言葉、行為を、愛の炎で浄化しなさい。神聖なる愛の海に飛び込み、沐浴しなさい。愛の蜜を味わい、愛の化身となりなさい。
この体は動く神殿だと感じなさい。すべての存在が神のイメージであると感じなさい。この世界は神の住まいであると感じなさい。神のたった一つの力が、全ての手を通して働き、全ての目を通して見、全ての耳を通して聞いていると感じなさい。そうすれば、あなたは変化を遂げた存在となるだろう。そして、より高次の平安と至福を楽しむだろう。