Bliss Divine
23.自由
自由は人間が生まれながらにして持つ権利である。それはサット・チット・アーナンダ(絶対的存在・絶対的知識・絶対的至福)である。自由は永遠の命であり、知識・平和・至福である。意識するかしないか、気づいているかいないかに関わらず、全ての者が、この自由を目指している。国家は自由のために戦場で戦う。強盗も欲しい物を手に入れるという自由のために強盗をする―――彼の行為はねじ曲がっており、遠回りであるとしても・・・。あなたの歩みの一歩一歩が自由、もしくはサット・チット・アーナンダを目指している。
誰もが独立を求める。コーヒーショップの従業員は、お金を貯めて備品を揃え、コーヒーショップを開店する。彼は独立を求めている。誰かの下で働きたくはないのだ。洋服店に雇われて賃金をもらっている人も独立を求めている。彼はお金を貯めて、自分の洋服店を開くだろう。大学教授も独立を求めている。彼は大学の学長になることを望んでいる。弟子も独立を求めている。彼は自分のアシュラムを開き、グルになる。誰もが独立したいという生来の欲求を持っており、誰かの下で仕えたくはないと思っている。
誰もが独立を望んでいる。誰もが統治者になることを欲している。誰もが、人を自分の意志通りに導きたいと思っている。他の人の意志によって導かれることを好む者は誰も居ない。心の底では、誰しもが、できるならば全ての人を支配したいと思っている。ライバルを持つことを好む人は居ない。
本当の原因は、あなたの中に不死の、自ら光り輝く魂またはアートマンが存在するということである。それは唯一無二であり、ライバルが存在せず、内面の統治者であり、全宇宙の支えである。真実においては、あなたはこのアートマンである。あなたがそのような感情や欲求を持つ理由はそこにある。
全ての人の心に自由への欲求、自由への尽きない情熱がある。自由は人間が生まれながらに持っている権利である。自由は、ブラーフマン、すなわち永遠の魂の性質そのものである。ブラーフマンは二ティア・ムクタ、つまり永遠に自由である。神の創造物の中で最も低次の存在ですら、自由への欲求を持っている。自由は、魂の属性なのだ。生まれたとき、あなたは自由を伴っていた。どんな力も、これまでに人間が作り出したどんな装置も、その欲求を抑圧することはできない。自由の炎は常に明るく燃え続けている。人間の究極の目標は、解放、すなわちモクシャである。自由とは、マインドと物質という束縛からの解放である。
自由――真実と虚偽
自堕落な生活は完全な自由ではない。どこででも、誰の手からでも食べること、好きな場所で寝ること、何でも好き勝手にしゃべること、それは自由ではない。あなたは、身体、感覚、マインド、快適な生活、食べ物、ファッションの奴隷になっているのだ。
言論の自由は自由ではない。思考の自由は自由ではない。目的もなく彷徨することは自由ではない。好きなことだけ行うのが自由ではない。裸でいることは自由ではない。王や君主になることは自由ではない。スワラージャ(独立)は自由ではない。多くの物を持つことは自由ではない。快適な生活を得ることは自由ではない。膨大な富を持つことは自由ではない。国々を征服することは自由ではない。責任を縮小することは自由ではない。世界から引退することは自由ではない。
物質的な独立から完全な幸福や完璧さを得ることはできない。パンとジャムは、あなたに本当の幸せを与えることはできない。そのような世俗の小さな物事から、永遠の喜びを得ることはできない。
本当の自由
本当のスワラージャ(独立)とは単に政治的・経済的なものではない。しかし、政治的・経済的な独立は人民の福祉のために欠かせない。本当のスワラージャとは自分自身を統治することである。それがアートマ・スワラージャである。それは永遠の命であり、完全さである。ゆっくりとした、苦痛に満ちた段階を経てしか、そこに到達することはできない。
時間に縛られた存在から、永遠に至ること。それが自由、または解放である。マインドを静めなさい。そこには、自由と永遠の至福が待っている。
真の自由とは、生と死から解放されることである。肉体とマインドという束縛から解放されることである。カルマの絆から解放されることである。体や、その他の物への執着から解放されることである。真の自由とは、エゴイズムと欲望からの解放である。思考や好き‐嫌いからの解放である。情欲、怒り、強欲からの解放である。至高の真我と一体になることである。絶対者に溶け込むことである。
自由とは無執着の状態である。欲望の無い状態、マインドの無い状態である。欲望を減らし、根絶やしにすることによって、最高の至福と完全な自由という崇高な状態に導かれるのである。
束縛の原因
欲望、執着、エゴイズム、渇望によって、あなたは自分自身で束縛を作りだした。そして今度は、その束縛からの解放を求めて泣いている。
マーヤーにとって、生と死というサムサーラ(輪廻)の車輪にジーヴァを縛り付けるための最も強力な武器は執着である。何に対しても無執着だったら、あなたはこの世に生まれて来なかっただろう。最初の執着は物理的な体と共に始まる。そして、他の執着が次々に積もっていく。体を真我だと思い込むことにより、執着は体に関連した事にまで拡大していく。妻、息子、家、父親、母親、姉妹、などである。そして面倒を見る事がらは何百倍にも増えて行く。あなたはその人たち全員の世話をしなければならなくなる。息子の玩具のことも気にかける必要があるだろう。なぜなら、玩具は息子と関連しているからである。世話や心配は尽きることがない。人は、自分自身でそのような状況を作り出しているのだ。それは誰のせいでもない。蜘蛛や蚕が自分の体を消耗させて自分の唾液から巣を作りだすように、人間も自らの無知によって関心事や心配事を作りだし、自らを消耗させているのである。
マインドの遊び
マインドは人間にとって束縛の原因でもあり、救済の原因でもある。マインドには2つの側面がある。識別するマインドと想像するマインドである。識別するマインドは、自らを束縛から解き放ち、モクシャ(解放)に至る。想像するマインドは、自らを世界に縛り付ける。
人を世界に縛り付けるのはマインドである。マインドが無ければ、束縛も無い。識別の無さと無知によって、マインドは、この体の中に魂が閉じ込められていると想像し、魂が束縛されていると考える。自分をジーヴァートマン(肉体とマインドによって限界を設けられたアートマン)だと思い込み、それを「私」であると感じるために、「私は束縛されている」と考えるのである。自己中心的なマインドが、束縛の根源である。自己中心的でないマインドが、モクシャ(解放)の根源である。
「私」もしくはエゴイズムが無いところには解放がある。「私」もしくはエゴイズムが在るところには束縛、あるいは生と死がある。マインドが何らかの対象物や特定の感覚器官に執着するとき、それが束縛である。マインドが、どのような対象物や感覚器官にも執着しないとき、それが解放である。マインドが何かを欲するか、それにについて嘆き悲しむとき、また、何かを拒絶するか受け入れるとき、何かに対して怒りや幸福を感じるとき、それは束縛である。マインドが何も欲せず、拒絶せず、受容もしないとき、また、怒りも幸福も感じていないとき、それは解放である。解放とは、エゴとその欲望から自由になること、エゴの性質である感覚の喜びに対する切望という束縛から自由になることである。
マインドの病気を無くす
賢者たちは、マインドの病気を無くす特効薬を紹介しているが、それはマインドを通してしか摂ることができない。知識のある者は、汚れた衣類を泥でしか洗わない。殺人兵器であるアグニ・アストラ(火のミサイル)はヴァルニ・アストラというミサイルによってしか迎撃することはできない。蛇の毒は解毒剤を食べることによって緩和されるが、その解毒剤もまた毒の一種である。このことはジーヴァにも当てはまる。識別力を養い、鉄が鉄を切断するように、一点に集中したマナス(マインド)によって、統一の無いマインドが作り出す妄想を破壊しなさい。
精製されたヒ素は適切な量で投与すれば、素晴らしい効果をもたらす。それは様々な病気を治す。また、血液を改善する効果もある。しかし、精製が適切でなかったり、投与する量が多かったりすれば、多くの副作用が起こる。そうだとしても、マインドが純粋でニルヴィシャヤ(感覚的な対象への執着が無いこと)であれば、モクシャに導かれるだろう。マインドが不純でヴィシャヤサクタ(感覚的な対象物を好むこと)であれば、束縛へと導かれるだろう。
こちら側には物質があり、向こう側には純粋なスピリット、あるいはアートマンやブラーフマンがある。マインドは、両者の間の架け橋となる。橋を渡りなさい。マインドを制御しなさい。あなたは、ブラーフマンに到達するだろう。解放を得て、生と死という束縛から自由になるだろう。「私、あなた、彼」などの違いは消え去り、全ての苦難、悩み、惨めさ、悲しみは止むだろう。
マインドを制御した者が、真の君主でありマハラジャである。彼には、どんなことでも可能である。どこでも好きな場所に行くことができる。彼は、大気中の空気のように自由である。彼が受け取る幸福、自由、平安は限りが無い。哀れな、心の狭い俗物には、このようなヨーギの自由と喜びを想像することはできないだろう。彼らは、執着と贅沢によって骨抜きにされてしまったのだ。
悲しい誤解
あなたの真の性質である神聖さを知りなさい。地上の轍から抜け出しなさい。あなたは羊ではなく、ライオンである。物乞いではなく、真の皇帝なのだ。あなたは神の子供であり、いつかは消滅する地球という惑星に縛られている弱い動物ではない。
あなたは、自分の体、食べ物、妻、息子、友人などについて考える。しかし、マインドを内側に向けて自分の中に何が在るのかを見ようとはしない。あなたは、その体――肉と骨でできた――を真実だと考え、人生の野望と活動という要塞を建てる。あなたは、影を実物だと誤解して、表面的なもので満足する。思考する力を与えられながら、その力を使って不死の真我を探求しようとはしない。アートマンという貴重な宝石を捨て、一かけらのガラスにしがみ付いている。それは馬鹿げた行為ではないだろうか?
なぜ羊のように啼くのか?自分を主張しなさい。自分の中にあるブラーフマンの性質に気づきなさい。これから語る短い物語を注意深く聞きなさい。ライオンの子供が、瀕死の母ライオンによって何頭かの羊の群れの中に置き去りにされ、羊によって育てられた。子ライオンは大きなライオンに育ち、羊がメーメーと啼くと、一緒にメーメーと啼いた。
ある日、他のライオンが通りかかり、羊と一緒に大声で啼く羊ライオンの声を聞いた。このライオンは非常に驚き、羊ライオンにこう尋ねた。「兄弟よ!一体どうしたのですか?なぜそのような情けない状況でここにいるのですか?」羊ライオンは、こう答えた。「私は羊です。兄弟・姉妹に囲まれて、ここで幸せに暮らしています。」ライオンは「馬鹿げている」と吠え、「私について来なさい。あなたは間違った妄想に取りつかれている。それを見せてあげよう。」彼は羊ライオンを川辺に連れて行き、水に写る自分の姿を見せた。そして、羊ライオンにこう言った。「水に写った、あなたの姿を見なさい。あなたはライオンで、私もライオンなのだ。」羊ライオンは水に写った自分の姿を見て、嬉しそうにこう言った。「私は何という重大な間違いを犯していたのだろう!なるほど、私は確かにライオンだ。羊ではなかったのだ。」そして、恐ろしい声で吠えて、他のライオンと一緒に立ち去った。
兄弟よ!あなたもまた、自分の真の性質である神聖さを忘れて、この羊ライオンのように啼いている。君主であることは、あなたにとって極めて自然なことなのだ。君主であることはアートマンの属性である。無知によって、あなたは体をアートマンだと思い込み、物理的な体、ビジネス、仕事場、大学、ゲーム、所有権などにおいて、そして、他のどんな分野においても、人より優位に立とうとするのだ。アートマンを悟ることによってのみ、あなたは完全な君主になることができる。アートマ・スワラージャによってのみ、あなたは完全な独立を手に入れることができる。アートマ・スワラージャのみが、あなたを全宇宙の究極の統治者、または絶対君主にすることができる。それゆえ、この素晴らしいアートマンを悟りなさい。そして、三界における真に強力な君主になりなさい。