Bliss Divine
22.恐れ
恐れは人間なら誰しもが持つ本能である。恐れは普遍的で、どの場所でも起こり得るし、いつ何時やって来るか分からない。
王は敵を恐れる。学者は議論の相手を恐れる。美しい女性は歳をとることを恐れる。弁護士は裁判官と依頼者を恐れる。妻は夫を恐れる。生徒は先生を恐れる。警官は上官を恐れる。カエルは蛇を恐れ、コブラはマングースを恐れる。誰しもが何らかの恐れを持っており、恐れから完全に自由な者など居ないだろう。
恐れとは何か?
恐れは痛みを伴う感情で、危険によって誘発される。それは、危険や痛みに対する不安である。脅威となる悪、もしくは差し迫った苦痛が引き起こす感情で、それを避けたいという欲求と、安全を確保したいという欲求を伴う。
恐れには様々な度合いがある。例えば、単なる怯え、小心、内気、警戒、恐怖、戦慄などである。恐怖の度合いが大きいと、身体全体から汗が出て、無意識に排尿や排便が起こる。マインドは丸太のようになる。時にはショック状態を起こし、その場で意識を失うこともある。突然の心臓発作で亡くなることさえある。
恐れは様々な形をとる。グルカの兵士はナイフも銃弾も怖がらないが、サソリを怖がる。狩人は森に住む虎を恐れないが、外科医のメスを恐れる。辺境の地の人間はメスを恐れない。外科医に麻酔無しで内臓の手術をさせることすらある。しかし、彼らは蛇を非常に怖がる。ある人たちは幽霊を怖がり、他の人たちは病気を怖がる。また、ほとんどの人は、公衆の面前で批判されることを怖がるものである。
通常の恐怖と想像上の恐怖
恐怖には2種類ある。すなわち、通常の恐怖と想像上の恐怖である。通常の恐怖の比率は、たったの5%で、90%は想像上の恐怖である。
通常の恐怖は健康的だと言える。それは人の進歩を促し、命を守る。校長は学校の監査役を恐れ、子供たちの教育をしっかりと見守る。子供たちは試験で良い成績を収めるだろう。鉄道の運転士は上司を恐れる。彼は非常に注意深く義務を果たし、列車の衝突を起こさない。医者は評判を落とすのを恐れて、患者に最善の治療を施す。病気を研究して、大勢の命を救い、さらに医者としての名声も得るだろう。
想像上の恐怖は病気の原因となり、エネルギーを枯渇させ、あらゆる種類の熱狂的な興奮と、活力の低下、心配、不快さ、不調和などを作り出す。コレラや腸チフスの流行では、恐れが感染を助長する。人はコレラを非常に恐れて悶々とする。そして、自分の身体に病原菌が入ったと想像するのである。想像が深刻な健康被害をもたらし、彼は実際に、その病気の犠牲者になってしまう。
想像上の恐怖の例
学生は次の試験のために昼夜を問わず準備する。そして、全クラスの試験に見事に合格した。しかし、彼は試験に対する恐怖という、言わば想像上の恐怖に取りつかれる。試験会場に入った途端、神経質になり、混乱する。手が震えるため、文字を書くことができない。彼は試験に失敗する。
シュリー R.S. バネルジーはデーラーダンにある彼の友人宅の一室で眠っていた。 その夜、彼と友人達は、悪霊による悪戯について話していた。その考えは、彼の潜在意識の奥深くまで到達した。そのため、自分が眠っている寝室には幽霊が居て、何らかの邪悪な霊が彼に危害を与えたという夢を見たのである。その日から、彼の健康は徐々に蝕まれていった。これは、ある種の想像上の恐怖によるものである。
誰しもが想像上の恐れを持っている。ある人は仕事を失うことを想像して恐れる。別の人は次のように想像し、思いを巡らせる。「今、妻が死んだら私の運命はどうなるのだろう?私が9人の子供たちの面倒を見なければならなくなる。」また、ある者は次のような想像上の恐怖を持っている。「ビジネスが失敗したらどうしよう。」「インド全土がパキスタンになったらどうなるのだろう。」「もしもインド全体に共産主義が広がったとしたら・・・・」このような想像上の恐怖には限りがない。
恐怖症
特有で、個人的で、不合理で、不自然な恐怖を恐怖症と呼ぶ。恐怖症は、恐怖の不自然な形である。それは客観的な現実性を持たない。そこには、人々を恐れさせる物が何も存在していない。周りに恐怖を覚えるような状況が無いにも関わらず、恐怖とネガティブな感情から逃れられないのである。
ある人はネズミを恐れる。これはネズミ恐怖症である。ある人は雷を恐れる。暗闇を歩くことが恐い者も居る。大勢の人々を見ることを恐れる人も居る。これは群衆恐怖症と呼ばれる。ブランマチャーリの中には、ご婦人たちのグループを見ることを恐れる者が居る。孤独を恐れる者も居る。灯りの無い部屋で眠るのを恐がる者も居る。トンネルなどの閉じられた空間を恐れる者も居る。これは閉所恐怖症と呼ばれる。開けた空間を恐がる者も居る。これは広場恐怖症と呼ばれる。医師に、どこも悪いところは全く無いと言われたにも関わらず、自分には心臓の欠陥や腎臓病、あるいは肝臓の不調があるなどと考える人たちが居る。これは身体についての恐怖症である。
人は、どんなことにも恐れを持つ。あらゆることが恐れの対象になる。
アメリカ人はロシア人を恐れ、ロシア人はアメリカ人を恐れる。インドの国境地域の人々は部族の人々を恐れる。恐怖症には限りが無い。
恐怖症の原因は、臆病さ、軽い愚かさ、または極端な愚かさ、そして、正しい考え方と正しい理解の欠如である。
両親と教師たちへの言葉
神経症的な恐れは、ほとんどの場合、子供時代に起源を遡ることができる。子供時代は、恐怖の種が不活性な状態で潜在意識の中に眠っている。その種は、一定の時を経て、危機やストレスに直面している時に芽を出すのである。
子供のマインドには、非常に容易く印象を刻むことができる。それはとても柔軟である。子供と接する時、母親や教師は細心の注意を払う必要がある。子供たちを恐がらせるようなことを話すべきではない。反対に、彼らを大胆で勇敢にするような、勇者の物語を聞かせるべきである。知性が高く勇敢な子供を産みたいのなら、母親は、妊娠中も、ラーマーヤナ、バガヴァータ、マハーバーラタのような、人々に感動を与える書物を読むことが大切である。
母親、父親、教師は、心理学についての初歩的な知識だけでも持つべきである。それがあって初めて、子供たちの人格を正しく形作ることが可能になる。
恐怖の悪影響
恐怖から全ての悪が始まる。恐怖は不運へと繋がる。臆病者の恐怖は、彼自身を危険に晒す。
継続的な恐怖は、あなたの活力を徐々に弱め、自信を揺らがせ、可能性を破壊する。それは、あなたを無力にする。継続的な恐怖は、成功にとっての敵である。
マインドにとっての恐怖は、身体にとっての麻痺に当たる。恐怖はマインドを麻痺させて、あなたを無力にする。恐れは、感情の中で最も破壊的なものである。恐れは神経系に損傷を与え、いつの間にか、あなたの健康を蝕む。恐れは不安を作り出し、幸福と心の平安を不可能にする。
様々な面で、恐れは人間にとって最も巨大な敵である。恐れは、人間の幸福と能力を破壊してきた。多くの人々を臆病にし、失敗させてきた。恐れは努力を殺し、奮闘を無意味にする。貧困と失敗は、恐れを抱くことによって生み出される。
恐れは、人類にとって大きな呪いである。恐れは多くの人生を破滅に導き、人々に不幸と失敗をもたらす。恐れはネガティブな思考である。それは、あなたにとって最悪の敵である。
恐怖の原因
ラーガ、すなわち執着は、恐れにとって長年の仲間である。執着は恐れの原因である。あなたは、万年筆や、杖、本、時計、タオル、洋服などに執着する。恐れが、ゆっくりと忍び寄って来る。それを失うことを恐れるのである。
ラーガが存在する所には恐れも存在する。恐れとラーガは共存している。男が妻に執着する。妻の身体は、彼にとって最も大きな快楽の拠点である。そのため、彼には恐れがある。彼女を失うこと、彼女の死、他の男と駆け落ちすること、離婚されること、彼女の機嫌を損ねることなどを恐れるのである。彼は、自分の子供、家、財産などに執着しているため、家、財産、子供を失うのではないかと恐れている。もしも、これらの物が壊されたり、失われたりしたら、彼は悲しみの中に溺れ、ひどい衝撃を受けるだろう。
物に対する執着が恐怖を生む。名声や名誉に対する執着が恐怖を生む。金銭と女性に対する執着が恐怖を生む。どのような執着にせよ、極度の恐怖を生み出す原因となる。何かを所有する者は恐れる。全てを手放した者、全てにアートマンを見る者は、恐れることがない。
ラーガが無ければ恐怖も無い。ラーガの鎖の最初のリンク(環)は、自分の身体に対する執着である。あらゆる種類のラーガは、この、物理的な身体へのラーガから始まる。人生と身体に執着してしがみつくことや、世俗的な生活への愛着が、全ての恐怖の主要な原因である。
多くの人が、睡眠中に、起きているときよりも悪い体験をする。その体験は過激で、驚くほど異常なものである。これは、就寝時のマインドが、様々な考えに満たされていたことが原因である。心配や恐怖があるとき、憂鬱なとき、また、差し迫った害悪について思い詰めているときに眠ってはいけない。誰でも、就寝前には、このような考えを排除し、それが完全に消えるまで神に瞑想すべきである。就寝前のマインドと魂は、完全に平和でなければならない。神に瞑想することができないなら、眠りに就くまで、神への賛歌や詩を大声で詠唱しよう。必ずや、平安で深い眠りを得ることだろう。
ときには、溺れそうな恐怖の大波が私たちに襲い掛かるかもしれない。しばらくの間、心のバランスを崩すこともあるだろう。神経が過敏になり動揺するかもしれない。一連の悪い出来事が、私たちの目の前に早いペースで次々と現れる。過去の記憶が、高速で駆け抜ける。想像力は膨らみ、私たちの行く手には、災害に次ぐ災害が待ち受けているかのように思い描く。しかし、このような環境の下にあったとしても、私たちは神に全幅の信頼を置き、神の庇護を求め、私たちを救えるのは神のみであると、完全に信じるべきである。
恐怖の克服
恐怖に打ち勝つためには、前述の方法だけでは充分ではない。実際の訓練が必要だ。最初は、自分が恐れている事柄にのみ直面すべきである。観客の前に立つのを恐れているなら、真っ先に果たさなければならない義務とは、舞台に対する恐怖と不安が無くなるまで、舞台に立つことである。上司や、自分よりも上位の力が与えられていると思う人に近づくと震え出すようなら、充分な精神力を得るまで、それを最優先の義務として毎日行うべきである。もしあなたが何かを恐れているなら、それに直面しなさい。そうすれば、恐怖は消え去るだろう。
しばらくの間座りなさい。熟考しなさい。内省しなさい。想像上の恐怖は、すべて逃げだすだろう。そのような恐怖は徐々に縮小して、空気中に消え去るだろう。マインドは、想像上の恐怖を通して、あなたを欺く。識別、熟慮、熟考、瞑想を学びなさい。マインドは泥棒のように身を潜めている。あなたは今、この悪戯好きなマインドに長年にわたって騙されていたと感じるだろう。そして、恐怖には実体が無く、大きなゼロにすぎないと気付くだろう。
心に、勇気の種を蒔きなさい。勇気が成長できるようにしなさい。恐れは自然に死に絶えるだろう。ネガティブさは、常に、ポジティブさによって克服される。これは、変わることのない心理学的な法則である。これは、ラージャヨーガにおけるプラティパクシャ・バーヴァナ(ヨーガスートラに書かれている方法。ネガティブな考えを、対極のポジティブな考えに置き換えて行く)という方法に当たる。この方法を繰り返し行いなさい。あなたは必ず成功するだろう。
意思の力を開発しなさい。勇気と不屈の精神を養いなさい。忍耐する力、危険に遭遇しても揺るがない精神、そして、抵抗するための力を身に付けなさい。激しい痛み、子供や財産を失うこと、長引く病気などに対しても、勇敢で忍耐強くありなさい。勇気と、男らしい性質を持ちなさい。聖者たちについて、また、彼らによる高徳の行為について思い出しなさい。聖者やヨーギと一緒に暮らしなさい。恐れを持たないアートマンについて瞑想しなさい。あなたは、勇気と男らしい性質だけでなく、他の徳も身に着けるだろう。そして、あらゆる恐怖症は消え去る。
神は、帰依者たちに完全な保障を授け、あらゆる種類の恐れを取り除く。神は、不安な気持ちと恐れを、自信と信頼に変容させる。帰依者をパニックと絶望から救う。神と、神の名前、そして神の恩寵に加護を求めなさい。全ての恐れは完全に消え去るだろう。神は、強さ、不屈の精神、勇気、平静さを、あなたの中に植え付ける。
無執着、すなわちヴァイラーギャの実習と、神の蓮華の御足への愛情によって、執着を手放しなさい。全ての恐れは消え去るだろう。次のような考えを常に持ちなさい。「対象物は全て幻想で、消滅し易く、痛みをもたらすものである。」そうすれば、あなたは無執着になる。たとえ執着があっても、それほど強いものではないだろう。僅かな思考と識別によって、執着を追い払うことができる。全てを手放すことと、ブラフマバーヴァ(全てはブラーフマンであるという意識)を養うことが、あらゆる恐怖を克服するための、最良の治療法である。
心理学者の間違い
心理学者たちの意見は、恐れが一切無い状態は不可能であり、恐れを克服するためには決意を持って努力するしかないというものである。これは正しくない。心理学者たちは、超越的な経験をしたことがない。ブラーフマンの知識を持つ完璧な聖者には、恐れが全く無い。ウパニシャッドは、とどろくような大声で次のように宣言している。 「恐れを持たないブラーフマンについて知る者は、彼自身が完全に恐れの無い人になる。」
恐れは、二元性のある所にしか存在しない。自分以外の、何か別のものが存在すると感じた時、即座に恐れが湧き上がる。彼は、もう一人の人間を恐がる。非二元性を経験した人が、恐れを持つことなど可能だろうか?非二元性を確立している完全な聖者は、人間の中で最も勇敢な人である。戦場の兵士や、武装強盗団の一員の勇敢さはタマシックな勇気に過ぎない。それは勇気とは言えない。それは単に、嫌悪や嫉妬ら生まれた粗暴な残忍さに過ぎない。真我の知識から生まれるサトヴィックな勇気だけが真の勇気である。
マインドの中に、如何なる二元性も持ってはならない。宇宙的な愛と、普遍的な人類愛を、常に育むべきである。愛と友好のあるところに、対立は存在しない。力関係における優劣は存在しない。もちろん、これは未だ途中の段階である。最終段階では、全てと一体であると感じるだろう。全てはブラーフマンである。全てがブラーフマンの中に溶け込む。ブラーフマンだけが、宇宙の隅々まで浸透している。彼の創造に二者は存在しない。この知識によって、恐れは完全に取り除かれ、その人は永遠の平安へと導かれるだろう。