Bliss Divine

55. 祈り

 子猫が啼けば、親猫が走り寄って連れ去るだろう。それならば、帰依者が泣いていたら、神は必ず救いに来るに違いない。

 祈りとは、苦難に際して神に助けを求め、頼ることである。祈りとは、帰依者を慰める機会を神に与えることである。祈りとは、神に心を開いて、心の重荷を軽くすることである。祈りとは、あなたが窮地に陥ったときに、最善な道について神の判断を仰ぐことである。人は、絶望から祈りを学ぶのだ。

神秘的な状態

 祈りは依頼ではない。祈りとは、ひたむきな帰依心を通して、神と交わることである。

 祈りとは、神の近くに居ることである。祈りとは、マインドの波長を神に合わせることである。祈りとは、マインドを神に集中させることである。祈りとは、神を瞑想することである。祈りとは、神に対して自分自身を完全に明け渡すことである。祈りとは、マインドとエゴが、無言で神の中に溶け込むことである。祈りは、個別の意識が神に吸収されるときの、神秘的な状態を表す。

 祈りとは、魂を神の場所まで持ち上げることである。それは、彼(神)への愛と崇拝の行為である。祈りは神を称えることである。祈りは神に栄光を与えることである。祈りは、神が与えてくれる全ての祝福に対して感謝することである。

 祈りは願いを言葉にすることである。それは、人間の心・マインド・魂を通して流れ続けているスピリチュアルな力を呼び出す行為である。祈りはスピリチュアルな力であり、強力なものである。重力や魅力が実在するのと同様に、祈りの力も実在している。

 祈りは宗教の魂であり、真髄である。それは、人間の生活の中核を成すものである。誰しも、祈りなしに生きることはできない。

誰でも祈ることができる

 盲目の人、耳や足が不自由な人、腕の無い人、虚弱な人、無知な人、下劣な人、最下層の人、見捨てられた人。どんな人でも神に祈ることができる。なぜなら、祈りは心と感情に属しており、身体に属してはいないからである。

 祈りは、高い知性も雄弁さも必要としない。あなたが祈るとき、神は、あなたの心を求めているのだ。無学であっても、謙虚で純粋な魂から発せられる2~3の言葉は、学者や講演者の流れるような雄弁な言葉よりも、神にとって魅力的なのである。

 子供は文法も発音も知らない。しかし、子供が発する音を、母親は理解できるのだ!ヨーロッパの役人に仕えるインド人の執事は、英語の教授ではない。彼は述語の無い文章を話すことがある。しかし、役人は執事の言葉を理解するのだ!他人ですら心の言葉を理解できるのなら、アンタルヤーミン(内面、自己)に理解できないはずはない。彼は、あなたが何を言いたいのか知っているのだ!あなたが神に捧げる祈りが間違っていたとしても、唱えるマントラが間違いだらけだったとしても、あなたが誠実で、その祈りが心からのものであるなら、神は聞いてくださるだろう。神は、あなたの心の言葉を理解するからである。

誰の祈りが神に届くのか?

 祈りは心から湧き出るものでなくてはならない。それは、口先だけの称賛であってはならない。中身の無い祈りは、鳴り響く管楽器や、シンバルの音のようなものである。

 誠実で純粋な心から発せられる祈りは、即座に神に届く。狡猾な、不正直な、邪悪な人の祈りは、決して届くことがない。

 誠実な帰依者からの願いに、神は常に応じる。神は耳が聞こえないなどと言うのは、不誠実な者だけである。

 神は、彼の子供たちが発する苦悩の信号を、常に見張っている。ためらう事なく、神に対して、あなたの心を開きなさい。彼は即座に応じてくれるだろう。

祈りの練習

 あなたの呼吸は、祈りに使うために、神があなたに与えたものである。跪いて祈りなさい。ただし、立ち上がっても祈りを止めないようにしなさい。祈りは一生でなければならず、また、あなたの人生は一編の長い祈りであるべきなのだ。

 祈りによって解決できない問題はない。祈りによって軽減できない苦悩はない。祈りによって乗り越えられない困難はない。祈りによって克服できない悪はない。祈りは神との交流である。祈りとは、それによって神の力が人間の血管に流れ込む奇跡である。それゆえ、跪いて祈りなさい。

 あなたの心の奥で、情欲や怒り、あるいは、虚栄や邪悪さが嵐のように激しく吹き荒れるとき、跪いて祈りなさい。神は、いや、神のみが、それらの感情を静める力を持つ。懇願することは、あなたの強みである。あなたは、神の祝福によって満たされるだろう。彼の恩寵によって守られ、彼の慈悲という盾を得るだろう。そして、彼の神聖な意思によって、正義の道を歩む上での激励を与えてくれる。

 それゆえ、跪いて祈りなさい。地上の品物でも天国の喜びでもなく、神の恩寵を求めて祈りなさい。あなたは次のように祈るだろう。「神よ、あなたの御心が為されますように。私は何も欲しくありません。」 なぜなら、あなたは、何が自分にとって良いことなのかを知らないからである。もしかしたら、苦労の種を願っているかもしれないし、破滅を祈っているかもしれないのだ。恩寵を求めて祈りなさい。神の正義が、全ての人の魂に降り立ちますようにと祈りなさい。

 感謝の気持ちを込めた祈りと共に、一日の夜明けを歓迎し、沈みゆく太陽に別れを告げなさい。最初は新しい日が与えられたことに対して、最後は神の恩寵を受け取ったことに対して祈りなさい。そうすれば、あなたの人生は祝福されるだろう。そして、神の祝福を、周りにいる全ての人たちに放射するだろう。

祈りの恩恵

 祈りは非常に強いスピリチュアルな力である。祈りは魂にとってのスピリチュアルな食べ物である。祈りはスピリチュアルな強壮剤である。

 祈りはスピリチュアルでパワフルな流れである。祈りほど浄化をもたらす物は、他に無い。あなたが毎日規則正しく祈るならば、あなたの生活は徐々に変化し、形作られていくだろう。祈りは習慣になるべきである。祈りが習慣になったなら、祈り無しでは生きられないと感じるようになるだろう。

 祈りは心を軽くし、マインドを平安、強さ、純粋さで満たす。祈りの力でマインドが純粋でサトヴィックになったとき、知性が鋭く研ぎ澄まされる。祈りはマインドを高揚させる。祈るとき、あなたは自分自身を、尽きることのない宇宙エネルギーの発電所、すなわちヒランヤガルバに繋げ、彼から力、エネルギー、光、強さを引き出すのである。

 モクシャへの退屈な道のりを歩むとき、祈りは信頼できる道連れである。祈りは、サムサーラの海で溺れている時に、しがみつくことのできる岩である。祈りは、帰依者を死の恐怖から解放する。それは、人を神の近くに連れて行き、神聖な意識、および、自身の本質である不滅の、至福に満ちた性質を感じるようにさせる。

 祈りは、驚くべき働きをする。祈りは山をも動かす。医者に見放された患者ですら、祈りが救いとなり、奇跡的に回復する。このような実例について、数多くの記録が残されている。あなたも、このことに気付いているかもしれない。祈りによる癒しは、実に奇跡的で神秘的である。

 祈りは、全ての状況に対する確実な治療法である。その素晴らしい可能性を、私は何度も体験した。あなたも又、それを体験することができる。

祈りと繁栄

 家に泥棒が入ったら、あなたは泣く。子供を亡くしたら、あなたは涙を流して嘆き悲しむ。手足が砕かれたら、あなたは苦痛にもだえ苦しむ。おお、ラーマよ!あなたは神のために涙を流したことがあるだろうか?常に、神を求めて泣きなさい。神は、全ての災難を防いでくれる。神の支援を得るために、あなた自身を神に絡ませ巻き付けなさい。そうすれば、怪我の無い人生を送れるだろう。この方法に従い、収穫を刈り取りなさい。祈って繁栄しなさい。

 この世界のどんな物にも、あなたを救うことはできない。あなたを一番好きなのは、神である。彼を呼びなさい。神は、あなたに向かって駆けて来るだろう。神の指導を仰ぎなさい。神の栄光を称えなさい。神の慈悲を求めなさい。

 ドラウパディは、ひたすら祈った。彼女を苦難から救うため、主クリシュナはドワラカから駆け付けた。ガジェンドラも熱心に祈った。主ハリは彼を守るために円盤を携えてやって来た。ミーラ(16世紀の詩人、ミラバイ)の祈りで、釘のベッドはバラの花のベッドに、コブラは花輪に変わった。プララーダが頭から熱油を浴びせられたとき、彼の祈りが油を冷たくした。ナーマデーヴ(13世紀の詩人)の祈りで、ヴィッタル(ヴィシュヌ神もしくはクリシュナ神の化身)が絵の中から姿を現し、捧げられた供物を食べた。主ハリが4本の腕を持つ姿で現れたのは、エークナートの祈りによってであった。ダマジ(15世紀の聖者)の祈りによって、主クリシュナは召使いの役を演じ、バドシャー(イスラムの王)への支払いをした。ナーラダは今も祈り続けている。他に何が必要だと言うのか?今、まさにこの瞬間から、熱心に祈りなさい。あなたは永遠の至福を得るだろう。

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