Bliss Divine

1.アヒムサ(非暴力)

 人間の更生と神聖化における最初の一歩は、獣のような性質を無くすことである。獣において優勢な特質は残忍さである。そのため、賢い聖者たちはアヒムサを奨励した。アヒムサは、人間の中にある粗暴さや、冷酷さ、すなわちPasu-Svabhava(獣のような性質)に対抗し、完全に消滅させるための、最も効果的で優れた方法である。

 アヒムサの実習は愛を育てる。アヒムサとは、真実または愛の別名であり、純粋な愛である。それは神聖なプレム(宇宙的な愛)である。愛があるところにはアヒムサがあり、アヒムサのあるところには、愛と無私の奉仕がある。それらは全て関連し合っている。

 時代や地域に関わらず、全ての聖者や預言者が届けようとしたのは、ただ一つのメッセージだった。それは、愛、アヒムサ、そして無私の奉仕である。完成された魂たちが、日々の生活と活動の中に表現しているものの中で、アヒムサは最も高貴で善良な性質である。単に救済を得るためだけでなく、途切れることのない平安と至福を楽しむための、唯一の方法がアヒムサなのだ。どんな生物をも傷付けないことで、人は平安を得る。

 宗教は一つしかない。それは、愛と平和の宗教である。メッセージは一つしかない。アヒムサが、そのメッセージである。アヒムサは、人間にとっての究極の義務なのだ。

 アヒムサ、あるいは、どんな生物にも痛みを与えないようにすることは、インドの倫理観によって強調されている、特有の性質である。インドにおける精神文化の黎明期から、アヒムサ、または非暴力は、その中核となる教義であり続けている。アヒムサはスピリチュアルな、偉大な力である。

アヒムサの意味

 アヒムサ、または傷付けないことは、殺さないことも当然含んでいる。しかし、傷付けないことは、単に殺さないことを意味するのではない。広い解釈では、思考、言葉、行動の全てにおいて、いかなる生物に対しても一切痛みをもたらすことが無く、害することが無いという意味である。傷付けないためには、マインド、口、手のいずれもが害を為さないことが必要となる。

 アヒムサは、単に傷付けないだけの消極的なものではない。アヒムサは宇宙的な愛であり、積極的なものである。それは、嫌悪を愛に置き換えるという心の在り方を育てることである。アヒムサは真の自己犠牲である。アヒムサは赦しである。アヒムサはシャクティ(宇宙的なエネルギー)である。アヒムサは真の強さである。

ヒムサの精妙な形態

 いかなる生物も物理的に傷付けないことがアヒムサだと考えるのは、ごく普通の人達だけである。しかし、それはアヒムサの粗大な形に過ぎない。他人に対して軽蔑の眼差しを向けること、誰かに対して理不尽な反感や先入観を持つこと、眉をひそめること、嫌悪、虐待、中傷、悪口や非難、嫌悪感を隠し持つこと、嘘をつくこと、どのような形にせよ他人を害することで、アヒムサの誓いは簡単に破られてしまう。

 刺々しい、礼儀を欠いた言葉は全てヒムサ(暴力)である。乞食、使用人、または目下の人々に乱暴な 言葉を使うのはヒムサである。身振りや表情、声の調子、不親切な言葉で、他の人の感情を傷つけるのもヒムサである。他の人の前で誰かを無視したり、無礼な振る舞いを故意に見せつけたりするのは、無慈悲なヒムサである。他人の無情な行動に賛同するのは間接的なヒムサである。苦痛に晒されている人を助けないことや、人の苦悩を見て見ぬふりをすることさえ、一種のヒムサだと言える。それは、怠慢という罪になる。直接的であるか間接的であるか、消極的であるか積極的であるか、即座であるか遅延するかに関わらず、冷酷な振る舞いは、いかなる形であっても厳格に避けなさい。アヒムサを、その最も純粋な形で練習し、神聖な存在になりなさい。アヒムサと神聖さは同一のものである。

アヒムサ、強者の性質

 アヒムサを練習するなら、侮辱、非難、批判、攻撃にも耐えなければならない。過激な挑発を受けたとしても、報復することや誰かを傷付けることを、決して願ってはならない。誰に対しても悪意を持ってはならない。人の不幸を願ってはいけない。怒りの感情を隠し持ってはならない。真実のためなら命さえも喜んで失う覚悟を持つべきである。究極の真実には、アヒムサを通してのみ到達することが可能である。

 アヒムサは勇敢さの極致である。恐れ知らずでなければ、アヒムサは不可能である。弱い人間は非暴力を実行することができない。極端に死を恐れる人、忍耐力や抵抗力の無い人は、非暴力を実行することができない。それは、強者にとっての盾であり、弱者の盾ではない。アヒムサは強者の行為の性質である。それは強者の武器である。誰かがあなたを杖で叩いたとしても、その人に報復しようと考えたり、悪い感情を抱いたりすべきではない。アヒムサとは赦しに熟達することである。

 大昔の偉大な聖者たちの行動を思い出しなさい。ギータ・ゴヴィンダの著者であるジャヤデヴァは、彼の両手を切り落とした敵たちに、大きくて高価な贈り物をした。そして、誠実な祈りによって、彼らに解放をもたらしたのである。ジャヤデヴァは次のように言った。「主よ。あなたは敵であるラーヴァナとカムサに解放を与えました。それならば何故、今ここで、私の敵に解放を与えることができないのですか?」 聖人や聖者は寛大な心を持っている。

 パヴァハリ・ババは容器を入れた袋を持って泥棒を追いかけた。そして、次のように言った。「泥棒のナラヤン!あなたが私の小屋に来るということを、私は知らなかったのです。どうか、これらの品々を受け取ってください」。泥棒は非常に驚いた。その瞬間から、彼は悪い習慣を手放し、パヴァハリ・ババの弟子になった。

 ジャヤデヴァやパヴァハリ・ババのような聖者たちの気高い行為を思い出せば、あなたも彼らの徳と理想に従うようになるだろう。

アヒムサの段階的な実践

 マインドに報復と嫌悪の考えが浮かんだら、先ず身体と言葉を制御するようにしなさい。悪意を含んだ言葉や棘のある言葉を口にしないようにしなさい。相手を非難してはならない。他人を傷つけようとしてはならない。何か月か練習して、これを守れるようになったら、報復という考えは表に出る機会を失って自然に消滅する。実践の最初の段階では、そのような考えを制御するのが非常に困難である。そのため、先に身体と言葉を制御することが助けになる。

 先ず初めに、身体を制御しなさい。誰かがあなたを殴ったとしても平静でいなさい。感情を抑えなさい。イエス・キリストの教えと「山上の垂訓」に従いなさい。イエスは次のように言った。「あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも与えよ。」これを守ることは、最初は非常に難しい。

 長年のサンスカーラである報復という習慣、「歯には歯を」「やられたら、やり返す」「目には目を」「しっぺ返しをする」などの考え方が、あなたを仕返しへと駆り立てる。しかし、あなたは冷静に待たなければならない。内省して、瞑想しなさい。ヴィチャーラ(真我の探求)をしなさい。マインドは静まるだろう。怒り狂っていた相手もまた、冷静になるだろう。なぜなら、あなたの側からの反撃が無かったからである。彼はまた、驚き、恐れるだろう。なぜなら、あなたが聖者のように立っているからである。やがて、あなたは並外れた強さを得るだろう。理想を描きなさい。最初は足取りが不安定であっても、それを追い求めなさい。アヒムサの明晰なイメージと、その計り知れない利益を心に描きなさい。

 身体を制御した後は、言葉を制御しなさい。「今日からは、誰に対しても乱暴な言葉を使わない。」と、強く決意しなさい。もしかしたら、100回失敗するかもしれない。だからと言って、何か問題があるだろうか?あなたは徐々に強くなるだろう。言葉への衝動をチェックしなさい。マウナを実行しなさい。Kshama、すなわち赦しを実践しなさい。心の中で、こう言いなさい。「彼の魂は未熟である。彼の無知が、そうさせたのである。今回は彼を許そう。彼に仕返しをしたとして、私は何を得るだろうか?過ちは人の常、許すは神の業(わざ)。」Abhimana(アビマーナ:プライド、プライドを持って自己に執着すること)をゆっくりと手放しなさい。人間の苦悩の根本原因はAbhimanaである。

 最後に思考を見てみよう。誰かを傷つけようという考えをチェックしなさい。決して誰かを傷付けようと考えてはならない。全ての存在の中に、唯一の真我が宿っている。全ては唯一の神の顕れである。他者を傷つけることで、あなたは自分自身の真我を傷付けている。他者に奉仕することで、あなたは自分自身の真我に奉仕しているのだ。全てを愛しなさい。全てに奉仕しなさい。誰をも嫌うことなく、誰をも侮辱しないように。思考、言葉、行動において、誰も傷つけることがないようにしなさい。全ての存在の中に、あなた自身の真我を見なさい。それは、アヒムサの育成に繋がるだろう。

アヒムサの効用

 あなたがアヒムサに確立しているなら、あらゆる種類の徳を得たことになる。アヒムサは中心軸で、他の徳は全てヒムサの周りを廻っている。あらゆる足跡は、象の足跡の中に収まる。同様に、全ての宗教、全ての倫理規定は、アヒムサの偉大な誓いの中に包括されている。

 アヒムサは魂の力である。愛が在るとき嫌悪は和らぐ。アヒムサよりも大きな力は無い。アヒムサの実践は、意思の力を、かなり高度な段階まで開発する。アヒムサの実践は、あなたを恐れ知らずにする。確かな信念を持ってアヒムサを実践する者は、全世界を動かすことができる。野生動物を飼い慣らすことも、全ての人の心を掴むことも、敵に打ち勝つこともできる。アヒムサの力は、電気や磁気よりも、はるかに素晴らしく、精妙なものである。

 アヒムサの法則は、重力や分子の凝集力と同じくらい正確で厳密なものである。その法則を、科学的な正確さで、知性的に使う方法を知る必要がある。アヒムサの法則を、正確かつ厳密に実行するなら、偉大な仕事を成し遂げることができる。原子や自然をも意のままにできるだろう。

アヒムサの力

 アヒムサの力は知性の力を凌ぐ。知性を発達させるのは簡単だが、心を発達させるのは難しい。アヒムサの実践は、驚くほど心を発達させる。アヒムサを実践する者は、意志の力が強くなる。彼の前に敵は居ない。蛇と蛙、牛と虎、マングースとコブラ、猫とネズミ、狼と子羊が、親しい友として一緒に暮らすだろう。彼が居れば、あらゆる敵意は消え去る。「あらゆる敵意は消え去る」とは、人間、動物、鳥、毒を持つ生き物など、全ての存在が恐がらずにその実践者に近づき、また、彼に危害を加えることもないという意味である。彼の前では、敵意に満ちた性質は消え去る。ネズミと猫、蛇とマングース、また、生まれつき敵対する性質を持つその他の生物たちも、アヒムサに確立したヨーギを前にすると敵対心を失ってしまう。このようなヨーギには、ライオンや虎も決して危害を加えない。彼はまた、ライオンや虎に明確な命令を下すことができる。動物たちは、その命令に従うだろう。これが、アヒムサの実践によって得られるブータ・シッディである。アヒムサの実践は、やがて、生命の統合と調和の実現、またはアドヴァイタ(不二一元)意識という形で実を結ぶだろう。

アヒムサの実践の限界

 完璧なアヒムサは不可能である。最も注意深い出家者でも不可能である。完璧なアヒムサを実践するためには、歩く、座る、食べる、呼吸する、眠る、飲むといった行為をするときに、無数の生命に対しての殺戮を避けなければならないのだ。この世界で、他者を全く傷付けることがない人など一人も居ないだろう。生きるためには、他の生命を破壊しなければならない。あなたにとって、生命を損なわないという法に従うことは、物理的に不可能である。なぜなら、あなたの血液中の食細胞(白血球など)もまた、何百万もの危険なスパイリラ(鞭毛を持つ好気性の細菌)、バクテリア、病原菌などの侵入者を破壊しているからである。

 ある学派の見解では、強盗団の一人を殺すことによって何千人もの命が救われるなら、それはヒムサ(暴力)とは見なされない。アヒムサとヒムサは相対的なものである。危険に遭遇した際に、道具を使って僅かな暴力だけで身を守ることができるなら、それはヒムサとは見なされないと言う人たちも居る。英国人たちは、自分の愛する馬や犬が苦痛に苛まれていて、苦しみから救う手立てが無いとき、彼らを射殺する。魂が一刻も早く肉体から解放されますようにと願うのである。動機が最も重要な要因である。それは、あらゆる行為の根底に潜在している。

 出家者は、たとえ自分の命が危険に晒されている時でさえも、身を守るために暴力を行使してはならない。普通の人は、アヒムサを目標にすべきである。時には、自分勝手な理由からではなく、必要に迫られて暴力を行使することがあるとしても、アヒムサの原則から外れるべきではない。これに関しては、マインドに寛容になってはいけない。あなたが寛容であれば、マインドは常に最大限それを利用してあなたを暴力的な行為へと駆り立てるだろう。悪党に1インチ与えたら、1エル(45インチ)持っていくだろう。同様に、あなたが綱を緩めてマインドの選択範囲を広げるなら、マインドは即座にその方針を受け入れてしまう。

 アヒムサは方針ではない。崇高な徳である。それは、真理を探究する者の基本的な資質である。アヒムサが無ければ、真我の悟りは不可能である。アヒムサの実践を通してしか、至高の真我、またはブラーフマンを認識して到達することはできない。アヒムサを方針だと捉える人たちは、何度も失敗するだろう。そのような人たちは、暴力的な行為へと走りがちでもある。反対に、アヒムサを神聖な教義、またはヨーガの基礎的な規範として厳格に守る人たちは、暴力の行使へと追い込まれることがない。

普遍的な誓い

 アヒムサはマハーヴラタン、すなわち、偉大な普遍的誓約である。あらゆる国の、あらゆる人が実践すべきものである。それは、ヒンドゥー教徒やインド人だけに関連しているものではない。真理を悟りたいと思う人なら誰でもアヒムサを実践すべきである。困難に出会うかもしれないし、損失を被るかもしれない。しかし、アヒムサの実践を諦めてはいけない。あなたの強さを試すために、試練や困難がやって来て、行く手を阻むだろう。あなたは、堅固な意志を持って、それに立ち向かわなくてはならない。そうすることで初めて、あなたの努力が希望に満ちた成功として報われるのである。

 アヒムサには隠された力があり、それが実践者たちを守る。目に見えない神の手が、彼らを守るのである。そこには恐れが無い。拳銃や刀剣に何ができるというのだろう。

 この時代でさえ、ハエやアリに対して、ほんの僅かな痛みも与えない人たちが居る。彼らは砂糖と米を持ち歩き、巣穴に撒いてアリに与える。小さな虫を殺すことを恐れて、夜間も灯火を使わない。道を歩くときは非常に注意深く歩を進める。小さな虫を踏み潰したくないからである。このような人たちは幸いである。彼らは慈悲深い心を持っており、遠からず神を見るだろう。

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