Bliss Divine

2.怒り

 舟でガンジス川を渡っているときに、あるベンガル人が、一人のシーク教徒に腹を立てて、Saraまたはbadmash(邪悪な)という言葉を使って罵った。シーク教徒は非常に立腹して、ベンガル人の襟首をつかみ、ガンジス川に投げ込んだ。ベンガル人は死亡した。どれほど強い身体を持っていたとしても、このシーク教徒の精神は何と弱いことだろう。些細な音、たった一言で、彼の心は動揺し、バランスを崩したのである。彼は怒りの奴隷となった。

 怒りは全ての人を、その奴隷にし、犠牲者にする。非常に親密な友人同士でさえ、怒りによって友情が壊れてしまう。怒りは、妻を夫と口論させ、夫を訴えて裁判を起こす。怒りは全ての人を興奮させる。それは、多かれ少なかれ全世界を支配しており、神の世界もまた同様である。

 怒りは理性を破壊し、夢想だにしなかったような事をさせる。怒っている人は、信心深い人々を殺し、敬虔な人々を乱暴な言葉で中傷する。彼らは、何を話すべきで、何を話さずにおくべきかを決めることができない。そのような人々は、どんな罪でも犯すことができる。怒りの影響下では、父親、兄弟、妻、グル、王様に対して罵り、侮辱し、殺すことさえある。そして、後になって悔やむのである。

 怒りは非常にパワフルである。それは、全てのタパス(苦行)を台無しにする。怒りは、ドゥルヴァサを征服した。ヤジュナヴァルキャを打ち負かした。怒りは平和の敵である。知識の敵である。それは、ジーヴァの分別を奪う。人に、あらゆる不正義を行わせる。完全な盲目にさせる。怒りは、人を怒りの奴隷にする。

弱さの兆候

 怒りは強い感情である。それは現実の、または想像上の危害によって引き起こされ、報復への欲望を伴う。怒りは、悪意が向けられた、または向けられる恐れがあるという考えから沸き起こる。

 怒りはアストラル体に在るが、肉体の中にも浸透してくる。それは、土器の壺に入れた水が、微細な穴を通して表面に滲み出すのと似ている。血液は煮えたぎり、目は血走る。身体の中に大量の熱が生み出される。四肢と唇はブルブルと震える。拳を握りしめる。その人は、憤怒のためにどもり、言葉を探して口ごもる。

 あなたが敵に対して燃え立たせる火は、あなた自身を焼く。怒りはブーメランのように働く。なぜなら、それは怒っている当人を傷付けるからである。怒りは、怒っている人に戻ってきて、その人に害を与える。

 怒りは、精神的な弱さの兆候である。それは常に愚かさ、もしくは弱さから始まり、後悔や自責の念で終わる。怒りを制御すれば、エネルギーを無限に蓄えることができる。怒りが制御される時、それはスピリチュアルな力に変わり、全世界を動かすことさえできるだろう。

怒りは、どのようにして引き起こされるのか

 主クリシュナに、アルジュナは次のように尋ねた。「おおクリシュナよ。何が人を罪に駆り立てるのですか?知らず知らずのうちに、まるで何かに突き動かされるように。」聖なるクリシュナは、次のように言われた。「それは欲望であり、激怒である。それらは情熱から生じる。それは強欲と罪の怪物であり、私たちの敵だと知りなさい。」

 この世界における罪、または間違った行いの原因は欲望である。怒りとは変容した欲望、あるいは、形をもった欲望に過ぎない。怒りとは欲望そのものである。

 あなたは感覚の対象のことを考える。すると、それらの対象に対する執着が芽生える。そして、執着から欲望が生まれる。欲望からラジャスが生み出され、欲望の対象を手に入れるための行動へと、人を駆り立てる。欲望が満たされないとき、あるいは、誰かが欲望の成就を邪魔するとき、人は怒りを覚える。欲望が怒りに変わる。ミルクがヨーグルトに変わるのと同じ様に、欲望もまた怒りに置き換わるのである。

 怒りの根源的な原因は無知とエゴイズムである。侮辱、攻撃、批判に晒されたとき、あるいは自分の欠点が指摘されたとき、人は怒りを覚える。自分の欲望を満たすための行動を誰かに邪魔されたとき、怒りが沸き起こる。怒りは、自分の意見を愛すること、尊敬されたいと望むこと、自分が他の誰よりも賢く、優れた人物であると想像すること、などによって生み出される。

 怒りは、敵のことを考える人に沸き起こる。あなたが苛立ちの感情を忘れていたとしても、それは休眠状態でマインドの中に潜んでいる。その影響は、しばらくの間そこに在る。同一人物に対して、嫉妬、妬み、嫌悪といった感情を何度も繰り返し持つとしたら、その影響は、より長く続く。繰り返し怒りの感情抱くことは嫌悪感を強める。怒りの感情が繰り返されることで、単なる反感が強い敵意に育つ。

 精液を浪費し過ぎることが、苛立ちや怒りの主な原因である。情熱的な男性は、他の人よりも腹を立てやすい。精液のエネルギーを無駄使いする者は、取るに足らない事にさえ、すぐに苛立つ。ヴィーリャ(精力、活力)を蓄えているブランマチャリ(禁欲生活者)は、常にバランスの取れたマインドを保つ。彼は、どんな時でも、冷静な脳を持っている。

 情熱は木の根で、怒りは幹である。先ず、根っこを壊す必要があるだろう。そうすれば、幹、すなわち怒りは自然に消滅する。

怒りの形態

 苛立ち、眉をひそめる、立腹、憤慨、激怒、憤激、憤怒。これらは全て怒りの多様な形態で、激しさに基づいて分類されたものである。怒りは、突然起こる不快さの感情である。それは鋭利で、唐突で、短時間で消える。恨みは持続する。それは、継続的な怒りである。傷ついたことについて、憎しみを持って考え続けることである。憤怒は怒りが極まった感情である。激怒は、人から慎重さや分別を奪い、見境の無い行為へと駆り立てる。憤激はさらに激しい感情で、人を制御不能な暴力へと押し流す。

 苛立ちは、緩やかで精妙な形の怒りである。さらに精妙なのが不快さである。それは怒りにプライドが混じったものである。辛辣な言葉や不平を言うことで、あなたは不快さを解消する。これらは全て怒りの形態の一種である。

怒りと義憤

 怒りは個人的で往々にして自己中心的なものである。それは、自分に対する実際の、または想像上の不正によって沸き起こる。憤慨は下劣な行為に対する不快感であり、個人的でも自己中心的でもない。純粋な憤慨は後悔を生まないし、自責の念を持つ必要も無い。また、憤慨は怒りよりも自己を制御している。怒りは一般的に罪である。多くの場合、憤慨は義務である。私たちは「義憤」について語っているのだ。

 誰かが他の人を正そうとして、相手を制止し、進歩させるために気迫を込め、自己中心的ではない怒りを少々表したとしよう。それは「義憤」または「スピリチュアルな怒り」と呼ばれる。例えば、男性が女性を虐待し、彼女の慎み深さを蹂躙しようとした場合、居合わせた人がその犯罪人に怒りを覚えるのは、義憤または高貴な怒りと呼ばれる。それは悪いことではない。欲望または自分勝手な動機の結果としての怒りのみが悪い怒りである。時には、宗教的指導者が弟子を正すために、小さな怒りを外面に表さざるを得ないこともある。これは悪ではない。師であれば、そうすべきである。しかし、外面は熱く激しく見えても、内面は冷静でなければならない。アンターカラナ(内部器官:マインド、知性、潜在意識、エゴ)に、怒りが深く根を下ろして長期間留まることを許してはならない。海の波が引くように、怒りもまた次の瞬間には過ぎ去るべきである。

 善良な人の怒りは一秒で消える。普通の人の怒りは3時間で消える。下劣な人の怒りが消えるには一昼夜かかる。そして、大罪人の怒りは死ぬまで消えない。

怒りの悪影響

 怒りは、脳、神経系、血液に害を与える。マインドに怒りの波が生まれると、プラーナが素早く振動し始める。あなたは、動揺し、興奮する。血液は熱くなる。毒性のある物質が、血液中で大量に作り出される。血液が乱れると、精液も影響を受ける。

 たった3分怒りを爆発させただけでも、神経系に非常に有害な影響を及ぼし、その傷を修復するためには何週間、または何か月もかかる。最新の心理学によると、リューマチ、心臓病、神経の病気の原因は怒りであるとされている。

 激しい怒りを爆発させている母親の母乳を飲んだ子供が,中毒によって即死したことがある。母親が激しい興奮状態になったことで、猛毒の化学物質が血液中に放出されたのだ。このようなケースは多数報告されている。これらは、怒りの破壊的な影響である。

 怒りが権力を握ると、理性は一目散に逃げだす。怒りの影響を受ける者は、強い酒に酔う者に似ている。記憶を失くし、理解力は曇り、知性は歪む。

 怒りは理解力を曇らせる。マインドが激しく興奮しているときは、本の一節すらも明確に理解することができない。適切で明瞭な思考ができない。冷静なマインドで手紙を書くことができない。風でkランプの炎が揺らぐときに、対象物を明確に見ることはできない。同様に、怒りによって知性が揺らいだり興奮したりすると、知性の中に混乱が現れて、物事を的確に見ることも理解することもできないだろう。

 邪悪な性質と邪悪な行為は怒りから生まれる。あなたがもし、怒りを消すことができるなら、悪い性格は全て、自然に死に絶えることだろう。怒りから、不正、無分別、迫害、嫉妬、他人の持ち物を盗むこと、殺人、暴言、残酷さなどが生まれる。怒りに駆られた人は、その時点で通常の意識を失い、怒りの餌食になる。

 怒りの奴隷である人が、身体を良く洗い、丁寧に油を塗り、髪を整え、白い衣服を身に着けてみたところで、その人が怒りに支配されているならば、むしろ醜悪だと言える。マインドに怒りが存在するとき、それを示唆する兆候が顔に現れる。あなたのマインドが、腹を立てやすい傾向を持っているなら、日々の仕事や義務を効率的にこなすことができない。怒りを持っているなら、あなたは人生における戦いに敗北するだろう。

怒りを制御する方法

 怒りはシャクティの顕現である。怒りに直接立ち向かうのは非常に難しい。最初は、怒りのVega、すなわち力と、頻度、および持続時間を減らすようにしなさい。この手強い変化、すなわちVrittiを弱めるか頻度を少なくするよう努力しなさい。意識下にあるマインドの表面に、怒りが大きな波を作ることを許してはならない。潜在意識の中で、怒りが小さな不快感として形をとり始めた時に、その蕾を摘んでしまいなさい。今すぐマインドを転換しなさい。神聖なことを考えなさい。一心にジャパやキールタンを行いなさい。ギータやラーマーヤナやウパニシャッドの祈りや賛歌を繰り返しなさい。怒りの対極にある、忍耐、愛、赦しといったポジティブで神聖な徳を徐々に育てなさい。やがて、怒りは自然に消えていくだろう。

 食物は苛立ちと大いに関連している。ミルクや果物、ムング豆、ヨーグルト、ほうれん草、大麦、ピーナッツ、バターミルクといったサトヴィックな食物を摂りなさい。ニンジン、玉ネギ、ニンニク、カリフラワー、マスール豆、ドラムスティックなどを摂るのは避けなさい。辛いカレーやチャツネ、肉、アルコール、タバコを止めなさい。喫煙、肉食、飲酒は、心を非常に短気にする。それゆえ、これらの物を完全に断つべきである。喫煙は心臓病に繋がる。喫煙は、イライラしがちな傾向である「タバコ・ハート」を引き起こす。

 会話や討論の最中に激怒を誘う兆候がある時は、すぐに話を止めなさい。言い争ってはなりません。白熱した討論や議論に加わらないようにしなさい。常に優しく穏やかに話しなさい。言葉は穏やかで、議論には熱心でなければならない。言葉が険しいと不和をもたらす。優しく話しなさい。少しだけ話しなさい。温和になりなさい。優しくなりなさい。穏やかになりなさい。温和さ、優しさ、穏やかさを繰り返し養いなさい。

 怒りを純粋な理性によって制御しなさい。誰かに犬やロバと呼ばれたとして、なぜ怒りを感じるのですか?犬のように4本の足と尻尾が生えてきたのですか?この悪態は何だったのですか?それは空間に生じた単なる振動ではありませんか?

 あなたが日課にしているミルクを、使用人が持ってこなかったことに怒りを覚えたとしたら、自分にこう尋ねなさい。「なぜ私はミルクの奴隷にならなくてはいけないのか?」と。そうすれば、怒りの波は自然に静まるだろう。あなたが注意深くて思慮に富んでいるなら、他のときも怒りが沸き起こることはないだろう。顔をしかめるには40もの筋肉を使うが、微笑むにはたった15の筋肉しか使わない。あなたは何故、余計な努力をするのですか?

 怒りの制御が難しいと感じるなら、すぐにその場を離れなさい。長い散歩をしなさい。冷たい水を飲みなさい。オーム・シャンティと108回唱えなさい。あなたのイシュタ・マントラ(自分の神に対応したマントラ)でジャパをしなさい。または1から30まで数を数えなさい。怒りは静まるだろう。

自己制御と冷静さ

 人間の中には善と悪が共存する。人間とは、その両者が混じった存在である。全ての生物は、高徳と邪悪さという両方の力を内包している。人間が他の生物よりも高次の存在にしているのは、悪を制御し、積極的に善を行うということである。怒りは悪を呼び覚まし、有害な行為へと駆り立てる。自己制御は、悪を支配下に置き、善を行う余地を与える。つまり、怒りを制御すれば、悪も制御される。善はいずれ勝つ。怒りは感情のはけ口、または経路であり、それを通して冷酷さ、残酷さ、痛みと傷、報復、暴力、戦争、破壊などが現れる。怒りが克服されると、明晰な理解が得られ、識別力が働き始める。正しいことと間違ったことを見極めることができるようになる。あなたは、混乱することなく、道徳において清廉潔白な、真直ぐで狭い道を進むことだろう。

 自身の欲、利己主義、短気、苛立ちなどから、他の生物に痛みや苦悩をもたらすことがあってはならない。怒りや悪意を手放しなさい。戦いの意志を手放しなさい。常にマインドを冷静に保つよう、出来る限りの努力をしなさい。

 どんな状況でも冷静で落ち着いていなさい。神聖な光は静まったマインドにのみ降り注ぐ。マインドが静かな修行者のみが、深い瞑想とニルヴィカルパ・サマーディ(マインドが消滅した超意識の状態)。に入ることができる。ニシュカマ・カルマ・ヨーガ(結果を期待しない行為)を実習することが可能なのは、そのような人のみである。

 この冷静さ、すなわちサマという徳を、継続的で熱心な努力を通して、繰り返し養いなさい。冷静さは岩のようなものである。苛立ちが波になって打ち寄せるかもしれないが、岩自身はそれに影響されることがない。常に平穏なアートマン、または変化することのない不滅の存在に、毎日瞑想しなさい。あなたは徐々に、この崇高な徳を身に着けるだろう。

 悪には悪で、善には善で報いるのは簡単なことである。しかし、悪に善で報いるのは困難で崇高なことである。悪に至る道は下り坂で、転落するのは容易い。しかし、善に至る道は困難な上り坂で、棘が多く険しい道である。悪に善で報いるための強さと賢さを与えられた者は、実に祝福された人々だと言える。彼らは正しく地上における神なのだ。

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