Bliss Divine
28.幸福
人は、幸せを欲しがり、痛みを避ける。感覚的な対象から自身が望む幸福を得るために、全力を尽くす。そして、どういう訳か、複雑に絡まったマーヤーの網に捕らわれてしまう。可哀そうな人間!彼は、そのような物が壊れやすく儚いもので、有限であり、時間と空間と因果関係によって条件付けられていることを知らない。その上、それらの対象から望み通りの幸福を得ることもできないのだ。
感覚的な喜びは期待をかき立てる。その対象を手に入れない限り、人は魅了され続ける。対象を手にした瞬間、その魅力は消えてしまう。そして、彼は自分が網に絡まっていることを知る。
独身の男は昼も夜も結婚について考えている。しかし、結婚した後は、まるで牢獄に囚われているようだと考える。彼には妻の贅沢な欲求を満足させることができない。彼は家から森に逃げ出したいと望む。裕福だが子供のいない人は、息子を持つことでより幸福になれると考える。息子を得たいと昼も夜も頭を悩ませ、ラーメーシュワラム(タミルナドゥ州の街。有名な寺院がある)とカーシ(ウッタルプラデーシュ州の街。ヴァラナシのこと)へ巡礼に行き、様々な宗教的儀式をする。しかし、子供を得たら惨めな気持ちになる。彼の子供は癲癇の発作に苦しみ、彼のお金は医師の手に渡る。それでも、病気が治ることは無い。これはマーヤーのトリックである。世界全体が誘惑に満ちている。
悲しみのドラマ
世俗的な人は、いつも悲しみに溺れている。お金や権力、地位等々、何かを得るために四六時中奮闘する。そして、それを得られるかどうかを常に心配している。仮に熱望していたものが実際に手に入ったとしても、それを失うのではないかと常に心配している。
ある金持ちは巨万の富を持っている。しかし、子供がいないために心を痛めている。ある貧しい男には14人の子供があるが、食べるものがない。そのため、彼は惨めである。ある人は富と子供に恵まれているが、彼の息子は放浪者である。そのため、彼は心配している。ある男性は富と良い息子を持っている。しかし、彼の妻は非常に怒りっぽい。この世界に、幸せな者は誰も居ない。
簡易裁判所の裁判官は大いに不満である。彼は高等裁判所の裁判官になることを渇望している。大臣もまた不満を持っている。彼は総理大臣になることを切望している。百万長者は不満を持っている。彼は億万長者になることを切望している。夫は不満を持っている。彼の妻は色黒で痩せている。彼は顔色の良い別の妻と再婚したいと思っている。妻は不満を抱いている。彼女は、離婚して裕福な若い夫と再婚したいと思っている。痩せた男は不満を持っている。彼は脂肪をつけようと肝油を飲み干す。太った男は不満を持っている。彼は痩せ薬を服用する。この世界に、満足している者は一人も居ない。
医師は、弁護士を非常に幸福だと考える。弁護士は、実業家の方がより幸福だと考える。実業家は、裁判官の方がより幸福だと考える。裁判官は、教授の方がより幸福だと考える。この世界に、幸せな者は一人も居ない。
皇帝は幸せではない。独裁者は幸せではない。大統領は幸せではない。インドラ神は幸せではない。
それでは、誰が幸せなのだろう?聖者は幸せである。ヨーギは幸せである。自身のマインドを制御している者は幸せである。
幸福はマインドの平安から来る。マインドの平安は、欲望やモーハ(無知)がなく、ヴィシャヤ―(感覚的な楽しみの対象)と、対象物への想いもないマインドの状態から来る。平和の領域に入る前に、楽しみについての考えを全て忘れなければならない。
喜びと痛みは混在する
痛みなくして喜びを得ることはできない。喜びがあるところには痛みもある。あなたは世俗的な存在として、お金や女性(女性の場合は男性)の喜びを、むなしく追い求める。正反対の物のペアで作られている相対的で物理的な領域では、絶対的な幸福を得る事はできない。正反対の物のペアは順次入れ替わる。人生の後には死がやってくる。昼の後には夜が来る。暗闇は光へと続く。快楽の後には痛みが続く。
1アーナ(インドの通貨単位。1アーナ=1/16ルピー)の喜びには15アーナの苦痛が混ざっている。喜びの中に、痛み、恐れ、心配が混ざっているなら、喜びは無いに等しい。この1アーナの喜びを注意深く分析し始めれば、それは霞のように消えていく。あなたは、喜びが単なるマインドの遊びであると気付くだろう。
喜びと苦痛は相対的な用語である。二つの別個の実体が存在しているわけではない。その二つは同じコインの表側と裏側である。両者の違いは種類にではなく、度合いだけにある。
喜びと苦痛は、一つのものに付けられた二つの名前である。一つのものの二つの側面である。哲学的な知識のない世俗的な人にとって、それらは二つの異なる実体に見える。
喜びと痛みはマインドの中にある
あなたにとっての喜びが、別の人にとっては痛みとなる。今の喜びも、しばらくすると痛みに変わる。最初の2杯の牛乳は、あなたに喜びを与える。3杯目は嫌悪感とむかつき、吐き気を引き起こす。熱があるとき、ミルクはあなたに喜びを与えない。つまり、喜びは対象物の中ではなく、マインドの想像力や傾向の中にある。
喜びと痛み、美しさと醜さは、すべてマインドの間違った想像である。マインドは虚偽と幻想によって作られている。従って、マインドの抱く概念もまた、偽りの概念だと言える。
喜びと痛みはマインドの中にだけ存在する。それは主観的なものである。待ち焦がれていた物事は心地良い。しかし、そうでない物事は辛く感じる。欲望が快楽の原因である。
あなたは思考、バーヴァナ(熟考)、想像力を使って、喜びを痛みに、痛みを喜びに変えることができる。研究のためイギリスに留学した菜食主義の学生の多くは、常習的な肉食となった。インドに居たとき、彼らは肉を非常に嫌悪していた。かつては肉を目にしただけで吐き気を催すほどだった。それが今や、貪欲さと愚かさを纏い、貪るように肉を楽しんでいる。どのようにしたら、そのようなことができるのだろう?それは、思考の単純な変化によるものである。
無知な人は、喜びが外的な物に起因すると考える。それは実に深刻な間違いである。実際には、物の中に喜びはない。物には喜びも痛みも含まれない。それは、すべてマインドによる創造、マインドによる認識、マインドによる手品である。マインドの態度、または対象物に対するある種のメンタルな動きだけが、喜びと悲しみ、快楽と苦痛をもたらす。マーヤーは、マインドの想像力の中に彼女の強力な居場所を持っている。
激しい苦痛を味わっているときの一杯のコーヒー、ミルクまたはお茶は、あなたに何の喜びも与えない。健康な時は至福に満ちているように見えた世界が、非常に退屈に見える。あなたが重い病気に罹っている間、世界は全ての魅力を失う。その魅力が本物であるなら、いかなる時も、誰にでも喜びを与えなければならない。 違うだろうか?
喜びが痛みの原因である
痛みの原因は喜びである。お茶の中毒や、食後にフルーツとミルクを摂ることを習慣にしている人は、ある場所を訪ねて、お茶や、フルーツとミルクが摂れないと、非常に惨めな気持になる。妻が死んだ時、彼の人生における愛情深いパートナーを失ったことではなく、性的な喜びを得られなくなることを嘆き悲しむ。
痛みの原因は喜びである。死の原因は官能的な生活を愛することである。痛みを避けたいのなら、情欲の喜びを全て手放しなさい。死を避けたいのなら、官能的な生活を手放しなさい。
快楽では欲望を満たすことができない。それどころか、快楽は欲望を募らせ、より強くする。感覚の渇望、すなわちトリシュナによってマインドを一層落ち着きのないものにする。それはまるで、火にギーやオイルを注いで燃え上がらせるようなものである。求めるものが少ないほど、幸福は大きくなる。
裕福な人たちの多くは、巨万の富と2、3人の妻を持っているにもかかわらず、非常に惨めで、不幸である。私は何人かの裕福な地主たちと接する機会があったが、彼らは皆、不平不満を抱き、落ち着きがなく、不機嫌で、非常に惨めだった。したがって、幸福が、お金、物、女性(または男性)のいずれにも依存しないことは明白である。
幸福の根源
幸福は、世界に存在する物の中には無い。物には一かけらの幸福も入っていない。なぜなら物には生命が無いからである。 官能的な喜びでさえ、アートマンの至福の反射に過ぎない。私たちが知覚できる物やマインドから喜びを得られると考えるのは、全くの無知である。
マインドに欲望があるとき、マインドはラジャスで満たされる。マインドは、興奮状態で落ち着きがなく、平安ではない。望んだ物が得られるまで落ち着かない。望む物を手に入れ、楽しんで、欲望が満たされたとき、マインドは内面の魂に向かって動く。それは、機能することを止め、サットヴァで満たされる。すべての思考は一瞬だけ静まり、マインドは魂の内側で休息する。魂の至福は知性に反映される。しかし、無知な人は、自分がその物体から幸福を得ていると考える。それはまるで、乾いた骨を噛んでいる犬が、実際には自分の口の中が出血しているのに、骨から血が滲み出るのを想像して喜びを得ているようなものである。
本当の幸福は内側にある
本当の幸福はあなたの内側にある。それはアートマンの中にある。それは主観的なものであり、マインドが集中したときに現れる。インドリヤ(器官)が外側の対象物から引っ込められるとき、マインドが一点に集中しているとき、ヴァーサナ・クシャヤ(隠れた印象を取り除くこと)とマノナーサ(マインドの崩壊、エゴの崩壊)があるとき、欲望と思考が無くなったとき、アートマンの至福が現れ始め、スピリチュアルな歓喜に震え始める。
ジャコウ鹿は自分の臍に分泌される麝香の香りを嗅ごうと、あちこち走り回る。すでに首に着けているネックレスを、少女はあちこちと探し回る。あなたの中に貴重なダイヤモンドが在るのに、割れたガラスの破片を無益に追い求めている。あなたの中には至福の海がある。喜びの泉がある。それなのに、あなたはそれを求めてあちこち走り回っている。太陽の中の太陽が、常にあなたの中で輝いている。しかし、あなたの目は盲目で、それを見ることができない。あなたの中で永遠の音楽が鳴り続けているのに、耳が聞こえないあなたは、それを聞くことができない。
感覚的な喜び、およびスピリチュアルな至福
スピリチュアルな至福は最高の至福です。スピリチュアルな至福は、自分自身の魂の至福です。それは超越的な至福です。それは物から独立しています。それは果てしなく、一定で、永遠です。それは、聖者によってだけ楽しまれます。
感覚的な喜びは感情からやってきます。しかし、魂の至福は自己の喜びです。それはAtmanの先天的な性質です。喜びは一時的であり、儚いものです。至福は永遠で永久です。喜びは痛みと混ざります。至福は純粋な喜びです。喜びは、神経、マインド、そして物に依存します。至福は独立しており、自己で存在します。感覚的な喜びを達成するには努力が必要あります。けれども、、魂の至福とに労力はいりません。雫は海に加わります。Jiva(個々の魂)は至福の海に浮かびます。
Japa,Satsanga、慈善、マインドのコントロール、自己自制、無私の奉仕、GitaやUpanishads、Yoga-Vasishtha、聖書、コえつぼうしゃの宗教の聖典の学習、YamaおよびNiyama, Pranayama, Vairagya(冷静さ)そしてTyaga(エゴ、欲望、世俗の放棄)の練習をしなさい。
そうしてあなたは瞑想のための適切な道具、落ち着いた、鋭い、繊細で一点に集中したマインドを得ることができます。朝に3時間、夜に3時間、この道具の助けを借りて瞑想を開始してください。その後、新しい種類の言い表せないAnandaがあなたの中で始まるでしょう。あなたは、五感を超越しているスピリチュアルな至福を確信します。あなたはこのスピリチュアルな Anandaそのものを感じなければなりません。あなたはそれを自身で口にしなければなりません。あなたは12歳の男の子に性的な幸福を説明できますか?同じ味を試していない少年に甘いキャンディの幸せを説明できますか?いいえ、あなたにはできません。少年自身がキャンディを食べなければなりません。彼は大人になってから、肉体的な喜びを味わう必要があります。
世俗的な男性は、ジンジャービスケット、いくらかのお金、そして女性を手に入れているので、彼らはかなり幸せだと思っています。おぉ、もし彼らが不滅の甘露を一口味わうならば、彼らはどれだけの大きさの幸福を感じることだろうか!
体は、悲惨さや病気のすみかです。すべての結びつきから悲しみが湧き出ます。 女性(または男性)は、いらだたしさの永久の根源です。ああ!人々は、スピリチュアルな喜びより、惨めさのこの道を好みます。
充分です。あなたに充分なお茶とコーヒー、充分なソーダとレモネード、充分な父親と母親、息子、娘、兄弟、姉妹そして関わりがあれば。あなたは過去に無数の父親、母親、妻、子供がいました。あなたは一人で来ました。あなたは一人で行きます。何も、あなた自身の行動を除いてあなたの後を追いません。神を実現しなさい。すべての悲惨さは終わります。
あなたのマインドの平衡を乱すために楽しくて苦しい物に囲まれてはいるものの、平然とすべての物を受け取り岩のように不動であり続けなさい。常に陽気でありなさい。笑い、笑顔でいなさい。暗く、鈍いマインドが、どのように神について考えることができますか。常に幸せでいてください。幸せはあなたの本質です。これは快活さと呼ばれます。この快活な精神は、すべての熱望者によって養われなければなりません。
穏やかな状態で、幸せな中庸のマインドの状態を維持してください。それを過度に走らせないでください。人々は極端な喜びと同様に極端な憂鬱のショックで死にます。Uddharsha(過度の喜び)が、マインドにおいて生じることを許してはならないりません。それは過度の喜びです。マインドはいつも極度の憂鬱や極度の喜びのどちらかに極端に走ります。両極端は一致します。両極端は反応を引き起こします。過度の喜びで心が落ち着くことはありません。マインド明るく、穏やかなでいなさい。
この世界は単なる出現です。マインドと感覚はいつの瞬間もあなたを欺いています。喜びのための苦痛を間違えています。この感覚の宇宙にはわずかの幸福さえありません。富を集めるための、これらの利己的な苦闘と計画を断念しなさい。この大きなショーを維持している肉でできた人体のこれらのおもちゃを動かしているその操り人形師に直接行進しなさい。あなただけが永遠の幸福と永遠の喜びを見つけるでしょう。毎日の瞑想およびjapaの練習によって彼に融合してください。