Bliss Divine
31.偶像崇拝
普通の白い紙や色の着いた紙は、何の価値も持たない。あなたは、それを棄ててしまう。しかし、その紙にスタンプが押されていたり、王様や皇帝の絵が描かれていたとしたらどうするだろう?それがお札だったら、財布かトランクに入れて安全に保管するだろう。同様に、普通の石ころは、あなたにとって何の価値も無い。あなたは、それを投げ捨てる。しかし、あなたがもし、パンダルプール(マハーラシュトラ州の街)の主クリシュナや、他の寺院にある神像を見たとしたら、手を合わせてお辞儀をするだろう。その石には神の印があるからである。
旗は、彩色が施された一片の小さな布に過ぎない。しかし、兵士にとっては、非常に大切にしている何かを表すものである。彼は、旗を守るために命をも犠牲にする準備ができている。同様に、帰依者にとって、神のイメージは非常に大切なものである。それは、帰依心という独自の言葉で彼に話しかける。旗が兵士に戦場での勇気を奮い立たせるのと同様に、イメージは帰依者に信愛の情を起こさせる。
子供は、布で作られた人形を赤ん坊に見立てて遊び、授乳の真似事をする。未来の母親として、人形を抱擁し、育て、守ることで、子供は母親の気持ちを育む。同様に、帰依者もまたPratima(サンスクリット語で“神のイメージ”という意味)を礼拝し、それに集中することで、信愛の情を育てるのである。
偶像−神の象徴
Pratimaまたは偶像は神の象徴に過ぎない。帰依者がその中に見るのは、一塊の石や、金属の塊ではない。彼にとって、それは神の象徴である。それが貴重なのは、神の印を持つからであり、その人が神聖で永遠だと考えている何かを表しているからである。
ある偶像を礼拝するとき、「この偶像はジャイプールから来た。プラブー・シンが持参したものだ。重さは50パウンドである。白大理石で作られている。私は、この偶像を500ルピーで購入した。」などとは言わないだろう。あなたは、その偶像に神の属性の全てを投影し、「内なる自己よ、あなたは全てに浸透し、全知全能で、全てに慈悲深いお方です。あなたは全ての根源です。自ら存在する者です。あなたはサット・チット・アーナンダです。永遠不変の存在です。あなたは私の命の中の命であり、魂の中の魂です!私に光と知識を与えてください!あなたの中に永遠に住まわせてください」と祈る。帰依心と瞑想が、より強く、深くなったとき、あなたの目に石の偶像は見えない。チャイタニャ(純粋意識)である神のみを見るようになるのである。
神との親交を確立するための媒体
偶像は、彫刻家の空想の産物などではなく、輝きを放つ経路である。その経路を通して、帰依者の心は神に惹きつけられ、神に向かって流れる。あなたは、ラジオを通して、人々が世界各地で発する音波を受け取ることができる。同様に、偶像という媒体を通して、全てに浸透する神との交流が可能となる。偶像は偶像のままであるが、礼拝は神の元に届けられる。
「神は全てに浸透し、形の無い存在である。この偶像の中に神を閉じ込めることなどできるはずがない。」と、もっともらしく言う人たちも居る。彼らは、神の遍在に気付いたことがないのだろうか?常に神を見て、全ての物の中に神だけを見ているのだろうか?答えはNoだ。神の彫像に頭を下げることを阻んでいるのは彼らのエゴであり、それが動機となって、このような不完全な言い訳を述べるのである。
霊性の初心者のための道具
初心者にとって、偶像への礼拝は必要不可欠なことである。「絶対者」や「無限」にマインドの焦点を合わせることは、全ての人に可能なわけではない。あらゆる場所に神を見ることや、神の存在を実際に経験することは、普通の人間にとって不可能である。大多数の人にとって、集中の訓練には実体を持つ形が必要となる。マインドは、寄りかかるための道具を欲しがるものだ。最初の段階では、マインドは絶対者の概念を持つことができない。
偶像は初心者の支えとなる。霊性が未発達な段階において、偶像は子供の玩具のようなものである。それは神を思い出させる。物質的な偶像が、精神的な概念を呼び覚ます。
誰もが偶像を崇拝する
偶像崇拝はヒンドゥー教に特有のものではない。キリスト教徒は十字架を崇拝する。彼らは心の中に十字架のイメージを持っている。イスラム教徒が跪いて祈るときには、カーバ石を思い描く。世界中の人々が−数人のヨーギとヴェーダンタ学徒を除いて−偶像崇拝者である。彼らはマインドの中に、何らかのイメージを保っている。
心の中で浮かべるイメージもまた一種の偶像である。その違いは種類によるものではなく、程度によるものにすぎない。どれほど知的な人であっても、すべての崇拝者は心の中で形を生成し、そのイメージを心に留める。
誰もが偶像を崇拝する。写真や絵はPratima(神のイメージ)の一形態にすぎない。粗大なマインドは道具、またはAlambanaとして有形のシンボルを必要とする。精妙なマインドは抽象的なシンボルを必要とする。ヴェーダンティンですら、彷徨いがちなマインドを集中させるために、OMのシンボルを使う。石や木で作られた彫像や、絵だけが偶像ではない。弁論家や指導者もまた偶像になる。だとしたら、なぜ偶像崇拝を非難するのだろうか?
偶像が生命を持つとき
あなたの中の神は、偶像に潜む神聖さを呼び覚ます力を持っている。毎日の礼拝、プージャ、その他の方法は、偶像の中に神聖さを認知するという、私たちの内面の感情を証明するものである。それいのによって偶像の中に潜む神聖さが姿を現す。これはまさしく驚異であり、奇跡だと言える。絵が生命を持ち、偶像が話す。それは、あなたの質問に答え、あなたの問題を解決する。
帰依者にとって、偶像はChaitanya(純粋意識)または意識の塊である。帰依者は実際に、偶像の中に神を見る。彼は偶像からインスピレーションを得る。偶像は彼を導き、彼に話しかける。それは人間の形をとり、様々な方法で帰依者を助ける。
南インド、マドゥライの寺院では、シヴァ神の偶像が薪割り人と年老いた女性を助けた。ティルパティの寺院にある偶像は人間の姿をとり、彼の帰依者を助けるために裁判の証人となった。ティルパティ、パンダルプール、パラニ、カティルガマなどの寺院にある偶像は、強力な神々である。彼らはプラティヤクシャ・デーヴァータ(目で見ることのできる神)である。帰依者に恩恵を与え、病気を癒し、ダルシャンを与える。素晴らしいリーラ(神の遊戯)の数々は、このような神に関連したものである。
バクタ、あるいは聖者にとって、ジャダすなわち意識を持たない物質など存在しない。全てがヴァースデーヴァ、またはチャイタニャ(純粋意識)である:ヴァースデーヴァ サルヴァン イティ。ナルシ・メータ(15世紀の詩人。グジャラート語の最初の詩人)はラジャによって試された。ラジャは言った。「ナルシよ、あなたがクリシュナ神の誠実な帰依者であるなら、そして、あなたが言うように偶像がクリシュナ神そのものであるのなら、この偶像を動かしてみなさい」。偶像は、ナルシ・メータの祈りに応えて動いた。また、シヴァの偶像の前に居る、ナンディと呼ばれる神聖な牡牛は、トゥラシー・ダース(16世紀-17世紀の聖者・詩人)が供えた食べ物を受け取った。ある神像は、ミラバイ(16世紀の聖者・詩人。クリシュナの帰依者)と遊んだ。ミラバイにとって、その神像は生き生きとしており、チャイタニャ(純粋意識)に満ちていた。
ヴェーダンタと偶像崇拝
疑似ヴェーダンティンは、寺院の偶像に平伏することを恥ずかしく思う。平伏すれば、彼の一元性が蒸発してしまうかのように感じる。アッパール、スンダラール、サンバンダールと言った、名高いタミル人の聖者たちの人生について学びなさい。彼らは最も高いレベルの一元性を悟った者たちである。彼らは、あらゆる場所にシヴァ神を見ているにも関わらず、シヴァの寺院を全て訪れて偶像の前に平伏し、神への賛歌を歌った。それは現在も記録に残っている。63人のナヤナール(6世紀–8世紀のタミル人の聖者たちのグループ)の聖者たちは、寺院の床を掃き、花を集め、シヴァ神のために花輪を作り、寺院のランプに火を灯した。彼らは文盲だったが、最高の悟りを達成した。
トゥラシダスは宇宙意識を持っていた。全てに浸透する、形の無い神と親しい交流があった。それにも関わらず、手に弓を持ったラーマ神に対する情熱が消え去ることはなかった。
トゥカラムもまた、トゥラシダスと同じ宇宙意識の経験を持っていた。彼はアバンガ(ヴィッタル神を称える詩)の中で次のように歌う。「サトウキビに甘さが浸透しているのと同じように、私は全てに浸透する神を見る。」。それにも関わらず、腰に手を当てたパンダルプールのヴィッタラ神のことを常に語るのである。
ミーラもまた全てに浸透するクリシュナと自分が一体であると悟ったが、「私のギリダール・ナガー(クリシュナの別名)」と何度も繰り返して歌い続けることに飽きることはなかった。
象徴を崇拝することは、ヴェーダンタの見方と矛盾しない。それは、むしろ助けとなる。瞑想が上達すると、その形は無形のものの中に溶け込む。そして彼は、形を持たないエッセンスと一体になる。
スピリチュアルな梯子の段階
初心者にとって、偶像を礼拝することに何の問題もない。礼拝者は神と神の属性を偶像に投影しなければならない。偶像の中に隠されたアンタラートマン(至高の魂)について考えるべきである。次第に、その偶像の中に、全ての生き物の心に、そして、この宇宙にある全ての名前と形の中に、自分が崇拝する神が宿ると感じ始める。
偶像崇拝は、宗教の始まりの部分にしかすぎない。それは決して、宗教の最終地点ではない。初心者に偶像崇拝を勧めているヒンドゥー教の聖典が、上級の帰依者には「無限」または「絶対」を瞑想することや、「タット・トヴァム・アシ(私は、それである)」というマハーヴァーキャ(偉大な宣言)の意味について熟考するようにと述べている。
ヒンドゥーの人々は、偶像や十字架、または三日月などは、初心者がマインドを一点に定め、集中力を開発するための単なる象徴であり、スピリチュアルな概念と信念を吊るすためにコンクリートに打ち込まれた、沢山の釘のようなものであると知っていた。象徴は、全ての人に必要なわけではない。ヒンドゥー教において強制されるものでもない。進歩を遂げたヨーギや聖者には不要なものである。象徴は石板に似ている。入学したばかりの少年にとっては、それが役立つのである。象徴を必要としない人たちに、偶像崇拝を否定する権利はない。それが間違っていると主張するのは、単に自分の無知をさらけ出しているにすぎない。
それぞれが進歩の段階を示す。人間の魂は、無限なるもの、又は絶対者を理解し、悟るために、その人の強さと進化の度合いに応じて、様々な種類の試みをする。彼は、ますます高く舞い上がり、さらに強さを集め、ついには至高の存在の中に溶け込む。そして、ワンネス、もしくは一体性に到達するのである。