Bliss Divine
8.仏教
仏教は、ゴータマ・釈迦ムニによって創始された。彼はヒンドゥー教の反逆児であった。仏教は、ヒンドゥー教から直に生まれたのである。ブッダが新しい宗教を創設しようと考えたことは一度も無かった。何か新しいものを発見したわけでもなかった。彼はただ、ヒンドゥー教徒の間に行き渡っている、古代からの純粋な宗教の形を示したにすぎない。
ヴェーダとウパニシャッドという純粋で気高い宗教は、形だけの屍、意味のない儀礼や儀式へと退化してしまった。ブラーミン階級は、単なる家柄によって名誉を主張し、ヴェーダの勉強や徳の実践をないがしろにした。ブラーミン階級は不当に丁寧な扱いを受け、スードラ階級は不当に厳しい扱いを受けた。肉食は宗教的な処罰の対象となるため(隠れみのとして)、動物を殺して儀式の生贄にした。ブッダが現れた時代の社会は、そのような状況であった。優しさと愛に満ちた彼の心は、神聖な宗教の名の元に、罪のない動物たちの血が大量に流されることに耐えられなかった。
ブッダは、人の社会的な地位を決定するのは家柄ではなくて、その人の長所であると宣言した。虐げられていたスードラ階級の人々が、大挙してブッダの元にやってきた。彼は、階級による差別を無くすことと、動物を虐殺する生贄の儀式を止めさせることに、自分のエネルギーと時間を費やした。もしもブッダが、このような邪悪が存在しない時代に生まれていたら、もっと印象が薄かったかもしれない。社会改革の機会は無かったかもしれない。しかし、彼が生きた時代には、上記の2種類の悪が存在したために、多くの追従者が自然に彼に惹きつけられた。ブッダは、意図せずにして、新しい信仰の創設者となったのである。
仏教は不可知論ではない
この世界にブッダが生まれてきたのは、間違った道を破壊し、正しい道を示すため、そして悲しみを無くすためであった。仏教は決して不可知論でも無神論でもない。仏教はまた、虚無主義でもない。ブッダは神を否定しなかった。彼はただ、「“神は存在するのか?” “私は存在するのか?” “世界は現実に存在するか否か?”のような質問に思い悩まないようにしなさい」と言ったのである。あなたの時間とエネルギーを、無駄な論争のために使わないようにしなさい。実際的かつ宗教的な人になりなさい。心を浄化しなさい。マインドを制御しなさい。徳の高い人生を送りなさい。あなたは、ニルヴァーナ(涅槃)、解放、永遠の至福を達成するだろう。
ブッダを、無神論者や不可知論者であるとして非難するのは全く馬鹿げている。ブッダは、形而上学的な論争など役に立たないと知っていた。形而上学の領域に踏み込むことを拒否した。神は存在するのか、しないのか?生命は永遠なのか、そうでないのか?そのような質問には取り合わなかった。たとえ答えがあったとしても、ニルヴァーナの達成のためには必要ないからである。ブッダにとって、現前の大きな問題は、苦悩と苦悩の解消であった。彼は、抽象的な質問に思い悩まないようにと弟子たちに伝えた。目標の達成のために役に立たないことは、全て除外したのである。弟子たちには宗教的な教義ではなく、道を与える方が賢明であるというのが彼の考えだった。究極の現実に関する推測は、真実への道とスピリチュアルな達成にとって不必要な妨げであると考えたのだ。基本となる、きわめて重要なことは、究極の真実について論争することではなく、痛みと苦悩の世界から、無限の至福と永遠の命へと人を導くような道を歩むことである。究極の真実の性質は、マインドや言語によって把握することができない。ブッダが絶対者の性質について定義するのを拒んだとしても、あるいは、否定的な定義で満足したとしても、それは単に、絶対者または究極の存在が、あらゆる定義を超えているということを示しているにすぎない。
自立への道
仏教は熱心な、不屈の努力の宗教である。ブッダはあなたに、自分自身の真我、潜在的な力を信頼するように求める。この信頼が無ければ、何も達成することができない。ブッダが悟りを開いた後に、最初に言った言葉は「永遠の命への門は広く開いている。汝ら聞く耳を持つ者は信仰を解き放て」
ブッダは、弟子たちが彼の言葉を信じることを欲してはいなかった。彼の言葉を理解し、その言葉を自分自身による探求と経験を始めるために使うよう望んだ。徳と、信仰と、自立の道を歩む者だけに、その経験が可能になると宣言した。彼はカラマ族の人々に、こう説いた。「耳から伝えられたことや伝承を受け入れないようにしなさい。なぜなら、それは古く、何代にもわたって受け継がれたものだからだ。早まって、それが正しいと結論してはならない。書物に書いてあるという理由や推測によって、また、あなたの師が言ったからとか、僧侶が言ったからという理由で、言葉を受け入れてはならない。自分自身の経験に基づいて、なおかつ念入りに検証した後に、あなたの理性が認めること。また、あなたのためになると同時に、他の生命にとっても善をもたらすようなこと。それらは全て真実として受け入れなさい。そして、あなたの人生を、それに添って形作りなさい。」
この考え方は、自由思想家(科学・論理・知性に基づいた思考を重んじる)や合理主義者の物の見方でもある。しかし、それは探求者が目標を達成するための助けにはならない。知性は有限である。知性はそれ自身の限界を持つ。ウパニシャッドは、はっきりと断言している。すなわち、聖典に関する理論的な知識を持つだけでなく、究極の真実またはブラーフマンの直接的な知識をも持っているブラフマ・スロトゥリやブラフマニシュタ(ブラーフマンと同化している人)のような素晴らしい師の助けを通じて、自己実現を達成することができると。
ブッダ、非暴力と愛の伝道師
ブッダは、それまでに世界が創造した人物の中で、最も偉大な博愛主義者であり、人道主義者であった。彼は唯一無二の存在である。博愛主義と人道主義は、世界中の宗教活動の基調を成すものである。しかし、ブッダの博愛と人道的な精神、および彼の活動は、世界における宗教の歴史の中でも並ぶ者が居ない。
ブッダは、彼の王国を棄て、パンを求めてインド中の道を歩き回った。そして、人間と動物のために法を説いた。彼の心は、空や海のように広かった。彼は天国を求めなかった。金銭や王様の座も欲しがらなかった。何と高貴で私心の無いヨーギであったことか!生贄を止めさせるために、動物の代わりに、いつでも自分の命を差し出せる唯一の人間だった。ブッダは一人の王様に、こう告げたことがある。「あなたが天国に行くために子羊を生贄にすることが役立つなら、人間の生贄は、もっと役に立つだろう。それゆえ、私を生贄にしなさい」。彼は、その並外れた自己犠牲、偉大な離欲、そして人生の清浄さによって、この世界に忘れがたい印象を残した。
大勢の賢者や預言者たちが愛と非暴力の教理を説いてきた。しかし、世界の倫理思想の歴史全体から見ても、非暴力と愛の原則について、ブッダほど偉大な宣言をした者は居なかった。非暴力と普遍的な愛の教理を広めることに、ブッダほど貢献した人は居なかった。愛と非暴力という2つの基本的な善行を、ブッダほど実行した人は居なかった。優しく、親切で、慈悲深い心の持ち主であるという点で、ブッダに並ぶ人は居なかった。だからこそ、今でも何百万人もの人々の心の中で大切にされているのだ。蟻やミミズや犬が、ほんの少しでも苦しんでいるのを見ると、彼の脈拍は早くなり、哀れみが溢れた。ブッダは前世において、飢えた獰猛な動物のために自分の体を差し出した。幾度か転生し、幾度か親切な行為を行ったことにより、彼は最後の転生でブッダになった。
これまでに、仏教の名の下に流された血は、一滴たりとも無かった。仏教による宗教的な迫害の例は知られていない。今日では、世界の人口の三分の一が仏教徒であると推定されている。仏教は、強い思いやりの精神によって広まった。仏教の歴史は、自らが大きな戦いを開始したり、国を征服したりするようなこととは無関係だった。教えを広めるための平和な方法を、常に受け入れてきた。忍耐と平静さが仏教の信仰の特徴である。
八正道(パーリ語で、高貴な者のための八正道)
ブッダの伝道はシンプルでありながら、素晴らしく深遠なものであった。ブッダは、誰しもが経験し、誰しもが目にする世界の推移を、科学的なマインドという枠組みを使って分析した。彼は、すべてが無常で、変化しつつあり、永遠には続かない、または移り変わるということを見出した。周りのもの全てが一時的で、移ろいゆくものであるため、人生は、苦悩、不調和、仲たがい、不満に満ちている。この普遍的な悲しみ、またはDuhkaの経験が、ブッダの思索の出発点である。ブッダは悲観主義を説いたわけではなかった。素晴らしく楽観的だった。悲しみから抜け出す道があり、永遠の至福に満ちた天国は、誰にでも手が届くところにあると、力強く主張した。
ブッダが説いた4つの基本的な真実、または原理とは、世界には苦悩が存在する;苦悩の原因はTanha または強い欲望である;欲望が根絶やしにされたとき、苦悩も消滅する;そして、欲望の根絶は八正道によって達成される。
八正道とは*;正しい信念、正しい理解または物の見方、正しい願望、正しい言葉、正しい行い、正しい生活または正しい方法で生計を立てること、正しい努力、正しい注意深さまたは細やかな配慮、正しい集中または瞑想である。
これらがブッダによって示された、生き方における八つのステップである。それによって、あらゆる種類の苦悩は解消され、ニルヴァーナの達成、または解放へと導かれる。八正道は情欲、怒り、強欲さ、敵意、その他の悪を破壊し、心を浄化する。そこから、完全な、尽きることのない平安、永遠の至福、不死の命を与えてくれるボーディまたは悟りが始まる。
*八正道
(1)正見(しょうけん) 正しい見解、人生観、世界観。
(2)正思(しょうし) 正しい思惟(しい)、意欲。
(3)正語(しょうご) 正しいことば。
(4)正業(しょうごう) 正しい行い、責任負担、主体的行為。
(5)正命(しょうみょう) 正しい生活。
(6)正精進(しょうしょうじん) 正しい努力、修養。
(7)正念(しょうねん) 正しい気遣い、思慮。
(8)正定(しょうじょう) 正しい精神統一、集注、禅定(ぜんじょう)。
ニルヴァーナ — その意味
ブッダの宗教はニルヴァーナ的な至福に至るための道であった。それは方法であり、教義ではなかった。それはスピリチュアルな進歩のための仕組みであり、パッケージ化された教義ではなかった。
「ニルヴァーナ」の文字通りの意味は「外に出る」である。それは、平安と至福に満ちたスピリチュアルな経験を表し、情欲、悪意、怠慢という三種類の火が燃え盛っている私たちの心から「外に出る」ことを示す。
ニルヴァーナは単なる消滅ではない。それは、私たちの中に根付いている全てが完全に死滅することである。
今日の世界は、かつて無いほどブッダの教えを必要としている。人類と、人類の文化を破壊するための準備を、あらゆる所に見ることができる。原子爆弾への恐怖が、全世界を不穏にさせている。科学者も独裁者も、休息と平安を得ることができない。国家のリーダーたちの間には不信感が渦巻いている。邪悪さ、嫌悪、偏見が世界の隅々にまで広がり、人類の作り上げた文明の構造そのものが崩れ落ちる寸前である。どの国も、さらに多くの原子爆弾を持つという大きな野望を抱いている。科学者たちは、原子力エネルギーの放出を最大限まで増やそうと、昼も夜も研究室に閉じこもり、人々を破壊するために働いている。何という恐ろしい状況だろう!本当にショッキングな話である。世界を救うための唯一の方法は、ブッダとパタンジャリ・マハリシが説いた偉大な原理であるアヒムサ(非暴力)とマイトリ(慈愛)を蘇らせることである。嫌悪によって嫌悪を解消することはできない。嫌悪は愛によってのみ解消することができる。これは、世界が何度も何度も学ばなければならないレッスンなのだ。嫌悪には愛を、悪意には善意で応えると、今すぐに固く誓いなさい。愛と非暴力の伝道者、世界の救世主、ヴィシュヌ神の化身である、偉大なる聖者ブッダに対する敬意を表すには、それが最も良い方法である。